九十九神(つくもがみ)
日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊などが宿ったもののこと。
九十九神とは、人をたぶらかすものや妖怪として、あまり良いイメージがありません。
ですが、今回の九十九神としてのお話の『弊串(へいぐし)の神様』は、人をたぶらかすものや妖怪ではありません。
上棟式に棟に上げる祝い柱、または束。
弊束とも呼ばれます。
この柱に根付き家や人を守ってくれる神様です。
そんな『弊串の神様』から琴が聞いたお話✨
我が呼ばれし場所は、特別の場。
我はいつでもどこにでも現れるわけではない。
そして、いつでもそこにあるものでも無く
いずれは地に還される。
しかしそれは、そこにあるもの、そこに住む者、そこから旅立つものに全て言えること。
生きとし生きる者の願いがひとつになる場と確かな思いに応えるために参る。
そして、我に選ばれし者がそこにいることを確認し今回は参った。
昨今。
新しいものを手にするだけで、我が手に入った瞬間に興味も存在も忘れ去られる。
お金をかければどんなものも手に入る。
お金をかければどんなものでも捨て去ることができる。
安易な考えで手にされた「もの」は『怪(もののけ)』となり、人災厄災の元になる。
それだけ、一瞬の思いは儚い。
しかし、時を繋ぎ、時を大事にし、その時を生きる者への思いにブレがなく、また執着することなく未来を見据え、守りし存在を忘れず大切にする、心からの想いに嘘偽りなき者の元には我のような神が宿る。
家とは塚。
そこで暮らしそこから旅立つ場。
神宿る塚はいつまでも守られ、その塚を守る者もまた守られる。
いつかは全てを地に還し、また新たな塚(家)を築くだろう。
今回のこの地に命預け、渡世を送る者は、何事にも弱音を吐くことなく辛苦を全うし、全て自らの力にすることを約束した。
そして、その約束は子に継がれ、その子もまた大切に育てゆく子に受け継ぐ思いを繋いでいくだろう。
ここは我にとって安住の地。
心地よい想いが流れ入るのがわかる。
住む者の想いが家を守る。
そしてその住む者の想いで家は生きていく。
住めば都という言葉があるが、我はそうではない。
我のいう都は『想い』が整っている場。
街が乱れていればどこにいても不安と恐怖の連続。
心に乱れを及ぼす環境は、住まうものの気持ちも守るべきものの中心が自分となり、負の結界を勝手に作り、居心地を悪くし災難を呼ぶ。
そのような環境に供えられた神は、悪霊怨念と共に妖怪にとって変わり、悪災を呼ぶ。
それはもはや神とは言えぬ存在になる。
そもそも神として供えられた輩は、すでに神の意識と姿を見よう見まねで寄ってきた九十九神。
そこに神は存在していなかったことになる。
今こうして我がいるということは、そこに住まう者の心意気に応えるため。
我を呼ぶための準備が為されていること。
そして、様々な神に愛されている証を見たこと。
これら条件を飲み、この地に足を運び下ろしている。
あとはこの地に住まう者たちの生き様と心意気を、これからゆっくり見せて頂く。
人に影響を及ぼす悪氣の範囲は知っておろう。
人の想念というものは知らぬうちに根付く。
度々訪れ悪しき欲念を取り払い、常に新たな生気を保つ環境を心掛けるが良い。
気を使うは『氣を遣(塚)う』に値する。
氣を塚(家)に与えるということ。
何かのために自らの思い・気持ちを込めて、心から動くこと。
その心意気、この地に住まうものに与えて欲しい。
さすれば、我も心穏やかに過ごせるだろう。
何事にもブレない芯がある主の元、この家もどんな災害にも耐えるものとなり、命を守るものとなろう。
ということです✨
いつも穏やかに過ごしていただきたい!
そして守り神として来てくれたことに感謝✨
ありがたい✨✨✨