神様の中で、あまり良い印象がない神様もいます。
その一人。
今回は『疫病神』のお話です。
『疫病神』とは、疫病を流行らせる神。比喩的に人々から嫌われる人。
と記載されています😅
悪神であり、厄神とも言われます。
家々の中に入り人々を病気にしたり、災いをもたらすと考えられています。
そんな『疫病神』から琴が聞いたお話✨
元は「福の神」と呼ばれておった。
そんな時もあった。
では、なぜ今疫病神か。
人の心にはいつも「良い心」と「悪い心」がある。
・地蔵にお供えをして手を合わせる。
・困っています者を助ける。
・悩んでいる者の話を聞いて、心を軽くする。
これら皆、良い行いじゃ。
だが、これらの思いは紙一重。
思いに心を邪魔をする思いが入るとどうなる。
・地蔵にお供えを恨みを叶えてもらう。
・困っている者を見て笑う。
・悩んでいる者の話を聞いて、悪口を言っていたと嘘をつく。
これら皆、悪い行いになる。
表の思いと内の思いが違うと、心の中は毒される。
そのような者が持つ、神なる内側の存在は自ら持ち合わせた毒に侵される。
毒された心の持ち主の言葉は疫病のように広がり、何が真実かわからなくなる。
これが『偽り』
神なる内側の存在とは自分な核になるもの。
それは魂であり自分自身。
悪に侵された心の持ち主は、疫病神になる。
そのような者と関わることは、自らを疫病神として存在することになる。
良かれと思うこと、度が過ぎると煙たがられる。
関わることでツキを落とすと見なされた時から、その者は疫病神。
皆に愛される存在になりたければ、自らの心を正しい方向に導く思いが福の神を呼ぶ。
疫病神とはそういうもの。
ということです✨
疫病神にならないように、自分の心が正しいことを選べますように✨
『薬師如来』とは、五智如来の東方、浄瑠璃世界の教主。※浄瑠璃世界とは『現世』のこと。
十二の大願を立てた、人の病患を救うと共に悟りに導くことを誓った仏。
古来、医薬の仏として信仰されています。
阿弥陀如来が西方で『あの世』の教主。
薬師如来は東方で『この世』の教主。
『あの世』と『この世』がこのお方たちに守られています✨
そんな『薬師如来』から琴が聞いたお話✨
人は自ら『人を治す術』を知っています。
そして、それらは『全て身体』が知っています。
子供がケガをした時。
「痛いの痛いの飛んでいけ!」と言われたことはありませんか?
そして、痛みの箇所を撫でてもらったりしたでしょう。
母は言葉で痛みを軽くし、手で撫でてさらに痛みを軽くします。
言葉は全てにおいて癒しであり、手はさらに温もり思いやりを直に伝える特効薬と言えるでしょう。
悲しんでいる人の肩に手を置く。
その人の優しさが伝わり心癒されます。
辛く苦しんでいる人、落ち込んでいる人。
様々な苦悩には、そばにいてくれる人や仲間の「言葉」と「温もり」は心に浸透する薬そのもの。
頭はどう対応するかを考え、
顔は表情で心配や慰めを表現します。
身体は全てを受け止め、
足は傷つき心病む者の場所まで自分を向かわせる。
そして皆願います。
早く良くなってほしいと。
その思いが一番の薬。
心から願うこと。
そこにある思いやり。
そこにある優しさ。
思いが迷子にならぬよう
いつも私は皆を見守っていましょう。
ということです✨
優しさ思いやりでいつも心から接することを心がけたいと思います。
『阿弥陀如来』とは、五智如来において西方の極楽浄土の教主で、生あるものすべてを救う仏様です。
念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代に盛んになりました。
そんな『阿弥陀如来』から琴が聞いたお話✨
ひとつの場にとどまり自分を磨くということは、とても困難です。
たくさんの経験から「自分」を見出すことこそが、本来の自分を知る近道。
ただ闇雲に進むのではなく、そこにはいつも一条の光が当たる目当て『目標』があることです。
生きるということは、毎日のルーティンに過ぎない。
ですが、いつも明確な目的目標があることで、身体や思考がひとつになり、邁進できる。
今は有り余るほどの情報があり、どれを選択したら良いかも迷う世の中です。
そこから選ぶ目的目標は、自らの本能である魂が「この世で成し遂げるもの」を知っています。
そして日々の生活の中で、目的目標を達成するためのヒントを得ようとしています。
気づいていますか?
あなたたちも家族友人、その他の周りの人、そしてこの世界に生きているすべての人々が毎日ルーティンで同じことをしています。
違うのは思いのみ。
どう思い、どう生きるか。
それぞれの思い生き方があります。
生きとし生けるものすべて、魂の目的で生き、その一生には数えきれないくらいの学びと経験があります。
心も身体もひとところに留まるのではなく、もっと大きな感覚と広い目で心を覗き、自分のこと、魂の奥深さを知ることも学び経験ですよ。
とのことです✨
奥深いお話✨
『弥勒菩薩』とは、遠い未来、慈しみにより生あるもの全てを救うという菩薩様。
釈迦入滅後56億7000万年ののちに、兜率天(とそつてん)から地上にくだり釈迦にかわって衆生を救済すると言われています。
天での修行中を弥勒菩薩。
未来仏としては弥勒如来と称します。
56億7000万年後とは、地球を含む太陽系が消滅する余命とほぼ一致しているそうです。
兜率天とは、仏教世界の中央にそびえる須弥山(しゅみせん)の上空にある天界のことを指します。
そんな弥勒菩薩から琴が聞いたお話✨
我を見ず
我を知らず
我を見る
この意味は、
私という存在を見ることなく
私のことを知ることなく
心の中の私を見る
ということです。
これはあなたの心にあります。
自分という存在は自分で見ることは出来ません。
なので自分のことを知ることは出来ず
でも、自分の心を知ると自分というものを見ることは出来ます。
自分という存在は、人を介して初めて「自分」がわかります。
人の言葉から「自分は優しい」等ということ。
そして自分で自分を見ても、全体を見ることは出来ません。
鏡が無いと見えません。
この時、人の姿を見て話してくれる人の姿で、自分もこのような形をしているのだろうと知ります。
このように、人を見て何を思うかで「自分はどのような姿格好で、自分は何を考えているか」を知ります。
人は一人ではなく、自分以外の人がいるからわかること。
人との接点で初めて自分を知ります。
自分の周りにいる人。
家族や恋人。
仕事仲間 等
自分に関わる人たちはあなたを知り成長させてくれる存在です。
大切になさい。
そしてその人たちと関わる自分も大切にしなさい。
愛とはこのような考え方・見方で知ることが出来ます。
これを知ることが出来た時、感謝の心が生まれます。
そしてあなたは自分を愛し、生きていることに感謝します。
とのことです✨
改めて見直しますっ✨
たくさんの手を持ち、またその手のひとつひとつに意味がある千手観音。
観音菩薩が一切の衆生を救うために千の手と千の目とを具(そな)えることを願い得た姿と言われています。
千手観音は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。
シヴァ神などの神々の異名を持つ者であり、観音菩薩の変化神と考えられ、六観音の一尊でもあら千手観音。
千手観音から琴が聞いたお話✨
人はひとつひとつのものを大切に受け取るために両手がある。
人が受け止められるのは「ひとつ」のもの。
右手左手、両方がありふたつのものを手にすることが出来るが、片方にはひとつしか受け取れない。
これは、多くのものをいっぺんに受け取っても理解できるのはたったひとつということ。
ひとつを大切に出来ないものは、多くを理解することは出来ないということ。
欲は多くのものを手に入れようとすると、エゴに変わる。
だが、ひとつのことに執着することで、それは意欲に変わり自分を整えていく。
例えば「食欲」をあげよう。
食べるだけ食べ、食欲を満たすことは誰しも出来る。
だが、食欲を満たすためにバランスの良い食事を求めることで身体に良い効果をもたらす。
生きるための活力が手に入る。
このことで心も身体も満たされ、過不足ないエネルギーを存分に蓄えバランス良くエネルギー使うことになり、爽快感を得る。
逆に欲を満たすために得た食事は、身体に違和感をもたらす。
食べ過ぎて苦しいという経験を得る。
そうすることで、取り過ぎたエネルギーは身体を動かすことより休めることに意識が捉われ、動きを制限し、エネルギー自体を身体の内に収め意識の中に取り込まれる。
要は身体の機能そのものが、動作を取ることを諦め、動きそのものを拒否する。
人が与えられるエネルギーには限界があり、その限界を越えることで、過不足のない状態まで調整出来るまでの準備をする。
本能で身体の動きを止め休む選択をする。
その欲のひとつが煩悩となり、求めすぎるとエゴとなる。
生きるとは自分を作ること。
人の人生は自らが作り上げたもの。
生きるために必要なもの。
生きるために不必要なもの。
それらは活力に見合った持ち方をすることで、活力に変えられるが、不必要なものがあるからこそ自らの意識で正解を知る。
それらを煩悩と知ることで、手放すための千の手と千の目があることに気づき、一切を見逃すことなく手にするべきものを決める。
我はその指針。
選ぶことは難しい。
だが選ぶことが大切だと気づくことで、誰しも千の手と目を持つことができ、また元来持っていることを知る。
そうして皆生きている。
幾多の人々の心の中にある煩悩の精査を我がひとつの象徴とした姿で表し、気づきのひとつとして心のひとつとなるものとして住まっている。
また、人は一生のうちに【幾千】の物事を得るという証の姿が笑である。
ということでした✨
決めること
気づくこと
大切なのはわかるけど、意識がそこに向かうことが無ければわからないですね。
決めることも気づくことも全て自分で行うこと。
そこには欲やエゴがあり、意識の向上のために千手観音がいつも心の中にいるというお話。
意識って大事。
決める 気づくで生きているうちに手に入れる【幾千】を知れるよう心掛けようと思います✨
『女神』とは、女性の姿を持つ神のことです。
日本神話では、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を指します。
この他に、
ハトホル(エジプト)天空と愛の女神
アフロディーテ(イギリス)と同一視
イシス(エジプト)豊饒の女神
ガイア(ギリシャ)最古の大地の女神
イシュタル(古代メソポタミア・現イラク)
アフロディーテと同一視。
ヴァルザンディ(北欧神話)運命の女神 等
ここには上げきれないくらいの女神たちがたくさんいます。
そんな女神様たちの中から、アフロディーテ様から琴が聞いたお話✨
あなたたちの中に神はいます。
「信じる心」
「敬う心」
「褒める想い」
「認める心」
「愛おしむ心」
「労わりの心」
これらの心や想いが必ず
あなたたちの中にあります。
これが、あなた自身の内なる神の部分です。
優しさ
頼もしさ
力強さ
穏やかさ
清々しさ
聡明さ
正直
素直
広大さ
これらは皆の心の中にある『自分らしさ』
男女問わず、人が持つもの。
女神心は皆が持つもので、女だからあるものではなく、誰しもがある人間性。
これらを以て女神と称します。
女神だから優しいのではなく、心が大切です。
男性でも女神のような優しさがある。
女性でも男神のような力強さがある。
それはその人自身が持つ『人間性』
自分の心にある「本質」を見逃すことなく
存分に使うことで「本心」が現れます。
『心からの言葉』を相手に伝える。
これが『誠意』であり『思いやり』です。
あなたたちが持つ人間性を神は見ています。
内なる神の心に神は手を差し伸べます。
神が問いかける「心の声」
それはあなた自身の心の声でもあります。
逆らわず抗わず
素直に聞き入れ正直になることで
人は人を受け入れます。
あなたたちの心にいつでも暖かい日差しが差し
心がいつでも穏やかでありますように。
ということです✨
誠意と思いやり。
心からの言葉を伝える。
大切ですね❣️
『七福神様』から始まり『弊串の神様』までの神様たちのお話✨
お話を聞かせてくれた神様や、お話は出来なかったけど物語として教えてくれたりと、総勢「40人(柱)」(正確には45人)の神様たちのお話を載せました。
この神様たちは、琴・皇子がお仕事でやっているお客様にご依頼頂いた、新築工事における『土地浄化等祈願祈祷施術』(正式には、「土地浄化浄霊除霊結界・厄祓い・昇華消滅・清浄化祈願祈祷施術」)に来て下さった神々のお話です。
お願いしたら来てくれる訳ではなく、数年に渡りご挨拶や呼ばれて向かった神社やお寺など、様々な場所に行き、人で言う「交流」を深めて来たからこその成果だと思います。
ご縁を頂いたお客様にもたくさんのご協力とご厚意をいただき実現したものです。
また、イベントでお知り合いになった方や来訪下さったお客様からのお話で出向いた場所への神々との出会いや、友人の経験談からヒントを得た場所へ訪れ出会った神々とのご縁が、今回の土地浄化施術に全て反映されています。
古来からの神々のお話とは少し違うところもあります。
あくまでも琴が神々から聞いたお話であり、正解かどうかは分かりません。
ですが、神を信じる気持ちと、琴・皇子の力を信じて下さったお客様の『信じる』想いが、今回の施術という形となっています。
『お家を建てたい!』というお客様の夢と希望、そしてご家族の幸せと繁栄のために、日本各地を飛び回り得た神々とのご縁をお仕事として反映させていただける機会に恵まれ、数々の関わった方々とご依頼くださったお客様には感謝しかありません。
琴・皇子の土地浄化施術には、その土地に必要な神様が来てくれます。
今回登場してくれた神様たちは、地鎮祭に合わせ集まってくれた神々です。
神社仏閣だけではなく、自然神や精霊・妖精など目に見えない存在が琴・皇子を支えてくれています。
ひとまず【土地浄化施術】に関わってくれた神々のお話はここまで✨
明日からは、また違う神様たちのお話✨
九十九神(つくもがみ)
日本に伝わる、長い年月を経た道具などに神や精霊などが宿ったもののこと。
九十九神とは、人をたぶらかすものや妖怪として、あまり良いイメージがありません。
ですが、今回の九十九神としてのお話の『弊串(へいぐし)の神様』は、人をたぶらかすものや妖怪ではありません。
上棟式に棟に上げる祝い柱、または束。
弊束とも呼ばれます。
この柱に根付き家や人を守ってくれる神様です。
そんな『弊串の神様』から琴が聞いたお話✨
我が呼ばれし場所は、特別の場。
我はいつでもどこにでも現れるわけではない。
そして、いつでもそこにあるものでも無く
いずれは地に還される。
しかしそれは、そこにあるもの、そこに住む者、そこから旅立つものに全て言えること。
生きとし生きる者の願いがひとつになる場と確かな思いに応えるために参る。
そして、我に選ばれし者がそこにいることを確認し今回は参った。
昨今。
新しいものを手にするだけで、我が手に入った瞬間に興味も存在も忘れ去られる。
お金をかければどんなものも手に入る。
お金をかければどんなものでも捨て去ることができる。
安易な考えで手にされた「もの」は『怪(もののけ)』となり、人災厄災の元になる。
それだけ、一瞬の思いは儚い。
しかし、時を繋ぎ、時を大事にし、その時を生きる者への思いにブレがなく、また執着することなく未来を見据え、守りし存在を忘れず大切にする、心からの想いに嘘偽りなき者の元には我のような神が宿る。
家とは塚。
そこで暮らしそこから旅立つ場。
神宿る塚はいつまでも守られ、その塚を守る者もまた守られる。
いつかは全てを地に還し、また新たな塚(家)を築くだろう。
今回のこの地に命預け、渡世を送る者は、何事にも弱音を吐くことなく辛苦を全うし、全て自らの力にすることを約束した。
そして、その約束は子に継がれ、その子もまた大切に育てゆく子に受け継ぐ思いを繋いでいくだろう。
ここは我にとって安住の地。
心地よい想いが流れ入るのがわかる。
住む者の想いが家を守る。
そしてその住む者の想いで家は生きていく。
住めば都という言葉があるが、我はそうではない。
我のいう都は『想い』が整っている場。
街が乱れていればどこにいても不安と恐怖の連続。
心に乱れを及ぼす環境は、住まうものの気持ちも守るべきものの中心が自分となり、負の結界を勝手に作り、居心地を悪くし災難を呼ぶ。
そのような環境に供えられた神は、悪霊怨念と共に妖怪にとって変わり、悪災を呼ぶ。
それはもはや神とは言えぬ存在になる。
そもそも神として供えられた輩は、すでに神の意識と姿を見よう見まねで寄ってきた九十九神。
そこに神は存在していなかったことになる。
今こうして我がいるということは、そこに住まう者の心意気に応えるため。
我を呼ぶための準備が為されていること。
そして、様々な神に愛されている証を見たこと。
これら条件を飲み、この地に足を運び下ろしている。
あとはこの地に住まう者たちの生き様と心意気を、これからゆっくり見せて頂く。
人に影響を及ぼす悪氣の範囲は知っておろう。
人の想念というものは知らぬうちに根付く。
度々訪れ悪しき欲念を取り払い、常に新たな生気を保つ環境を心掛けるが良い。
気を使うは『氣を遣(塚)う』に値する。
氣を塚(家)に与えるということ。
何かのために自らの思い・気持ちを込めて、心から動くこと。
その心意気、この地に住まうものに与えて欲しい。
さすれば、我も心穏やかに過ごせるだろう。
何事にもブレない芯がある主の元、この家もどんな災害にも耐えるものとなり、命を守るものとなろう。
ということです✨
いつも穏やかに過ごしていただきたい!
そして守り神として来てくれたことに感謝✨
ありがたい✨✨✨
『天照大神』は神の中ではかなり有名なお方ですね!
誰しもが一度は聞いたことがあるお名前。
日本の神様の象徴とも言えます。
太陽をはじめ、光 慈愛 真実などを象徴する最も尊い神様と言われており、皇室の祖先とされています。
日本で最も重要な神様のひとつとして、あらゆる願いを聞き届けるとし、所願成就の神様として知られています。
代表的神社は『伊勢神宮』
鎮座して2000年の歴史を誇り、内宮と外宮の正宮を中心に、全部で125社から構成される日本最大の神社。
20年に一度、正殿を建て替え神様の御神体を遷す(うつす)、「式年遷宮(しきねんせんぐう」があります。
そんな『天照大神』から琴が聞いたお話✨
皆の幸せを願い、そして自分の幸せとすること。
神も人も思いは同じ。
人と神は万里一体。
非常に遠い存在ですが、思いはひとつです。
それは、人の心と神はひとつということ。
神が幸せを思えば、人も幸せを願い
神が安泰を思えば、人は安泰です。
御心のままという言葉があります。
意に従い、意を汲み、意向を尊重し、意のまま思いを継ぎ、意に沿い思いのまま、仰せのままにという意味があります。
全ての尊厳は神にあり、その尊厳に対して自らを改め言う通りにすること。
尊敬・敬いの気持ちを「御心」として表現します。
神と人の心がひとつなのであれば、その「御心」はあなたにもあるのです。
自分の心に従い、自らの気持ち(意)を汲み、自分の考え(意向)を尊重し、考え(意)のまま思いを継ぎ、考えに沿い思いのまま、自らの心のまま行動する。
心に決めたままに行動すること。
これを『覚悟』と言います。
自分の心(御心)で決めたこと(覚悟)をする(行動)。
この思い(心)が、神と自分(人)をひとつ(一体)にします。
思いがひとつになること。
それは遠い存在とされる神と繋がること。
唯一、一体になる方法です。
そこには、邪念邪心は存在しません。
何が良くて、なにが悪いか。
それは自分が決めていることで、自分の考えのまま思い、言葉に出し行動で表します。
全ての人がそうして生きています。
その生き方考え方思い方の中に神は存在します。
神なる存在が魂だということ。
魂は神が定めたひとつの命であり、命を全うするために魂が宿る存在が人としてあるところに神はいます。
これが神と人が「ひとつ」ということ。
神を信じること。
それは自らを信じることと同等です。
神に願うこととは、「自分との約束」
神を尊いものとするなら、自らを認めること。
神を信じ、そして人を信じることは、自分を信じることです。
そこに、裏切りや否定、様々な野心邪念を感じることがあれば、それは自分にもあるもの。
ですが、人はそれらを「自分には無いもの」と否定します。
ならば「自分にもあるもの」とし、心に思うまま行動することで、裏切ることなく否定せず、様々な野心邪念を捨て、認めればよいこと。
神を信じ、人を信じる思いは、自分が持つ御心のまま、魂の生き様在り方全てです。
それが「命」として、自らを生かし生かされています。
我が身が神なる存在の一部から生まれたように、あなたたちも神に守られし存在。
自分を信じるということは、神を信じることに通じ、神を大切にするということは、自らを大切にするということ。
人は、人として我が身を守るのと同時に、相手のことも認め、その相手も守っています。
自分を大切にしている者こそ、相手の気持ちを大切にします。
守るということは大切にするということ。
寄り添う思いやりが、自らと相手を守り認め、互いの命を大切にします。
これが愛であり、大切にする相手がいることで感謝が生まれます。
命とは育むこと。
命を大切にすることは、自らと相手を守ること。
大切にしたい思いが仲間を増やし、その仲間から大切にされることで、自分を認め相手を認めることができ、守ることに繋がります。
これら全ては思いやり。
自らの幸せは「心」が知っています。
聡明でいつでも懸命。
そして思いやりの気持ちで寄り添う。
自らの心にある愛と感謝を信じ、命を育てなさい。
というお話でした✨
「はい。」
素箋鳴尊(スサノウノミコト)は、皆さんも聞いたことがあると思います。
日本神話の代表的神格で、出雲神話の祖神とされます。
伊奘諾(いざなき)伊奘冉(いざなみ)の二神の間に生まれたとされ、天照大神の弟と言われています。
その凶暴さにより、地上また高天原を追放され、根の国の主神となります。
その途次、出雲國にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、稲田姫と結婚し宮を営みました。
暴風神・農業神・英雄神など多面的な神とされます。
そんな『素箋鳴尊』に琴が聞いたお話✨
皆、自らの神というものを持つ。
我が自らを神と思っていないのと同じように、我にも神はいる。
誰も自らを神とは思うておるものはいないだろう。
それは我も同じである。
神から生まれた者は神として扱われる違和感に悩まされ、我は我を認めて欲しく自暴自棄になっていた時もある。
皆、それで良いではないか。
我を忘れ自らを主張することもあってもそれは罪ではない。
だが、あることがきっかけで自らの本心にくすぶる玉(魂)が弾けた時、我は自らが神としての存在と気づく。
それは我が魂は自らのものではなく、他(た)のものでありそしてその他から学ぶべきものと気づく。
人のためにではない。
ましてや自らのものでもない。
それは我が身全てを作る魂からのものであり、我が身が神の一部から生まれた証ということが理解できた時、全てを知った。
どんなに長い時を費やすことがあっても良い。
またはとてつもなく短い時で知ることもあるだろう。
どんなタイミングでも、気づきは誰にでもある。
そしてその気づきに気づいた時。
自らの内なら神に気づく。
それが神と繋がる時であり、神が身近に感じる時であること、我が身で感じることが出来る。
ということです✨
自分の中にある神。
それは自分自身が神なる存在だということの意味を心から知る気持ちが、自分を楽にさせるということをみんなに知ってほしいです✨
出雲大社の祭神。
『大国主命(おおくにぬしのみこと)』は、スサノウノミコトの子、または6世な孫とされ、少彦名神(すくなびこなのかみ)と共に、中つ国の経営を行ったが、天照大神の使者が来ると国土を献上してみずからは隠退したと言われています。
大国主命のお話で有名なのは、因幡の白兎のお話は誰もが一度は聞いたことがあると思います。
大国主命は大黒様と同一視され、医療・まじないの法を定めた神とされます。
そんな『大国主命』から琴が聞いたお話✨
神がこの地に降りた時、人々は生きるために懸命に働いていた。
子供を守るため
家を守るため
土地を守るため
家族を守るために生きる
そんな暮らしがあちこちに見えた。
だが、今は自分の欲を果たすために生きている者たちが増えた。
一生懸命という言葉が退化するように、自らの一生懸命はあれど、守るための懸命さが希薄だ。
人は思いやりを持つ唯一の存在だと知っておろうか。
命あるもの全てに思いやりというものを神は与えた。
人や動物に相手を思う気持ちを持つことで優しさは生まれる。
そこには尊い愛があり、支え合う思いが存在した。
守るということは、とても尊いもの。
愛無しでは語れない。
今の世の中、希薄な愛で蔓延しこの世を生きている者たちに同情する。
自らの欲を果たすために神に出会い、縁を懇願する者たちに何の幸が訪れようか。
中には真剣に願い、自らの運命をも呪いながら祈願しに来る者もいる。
その者たちの思いを少しでも汲み、歩み寄る者たちが年々減っている今、誰が思いやりを持つことの素晴らしさを伝えるのか。
神は言葉を持たぬ。
病に伏せ言葉を待つものがいること。
心が病み、救いの言葉を待つ者。
表面には出ぬ「待っている思い」を誰もが持っている。
その1人に神は存在する。
信じるものがいてこその神。
信じないものがいてもそれは良い。
心の中にある神は『自分そのもの』ということに気づくことで、希薄な愛も思いやりのある愛になるということが皆が持っている愛だと知っていただきたい。
守るとは思いやりと愛の両方があってこそ。
自らの思いに愛があること。
知り気づく世になるよう見守ろう。
とのことです✨
ただ優しくすることだけが良いのではなく、そこに心からの思いやりがあってこその愛ですね{emoji:082_char3.png.ラブラブ}
本当の守ることの大切さは、ただ思うだけではなさそうです。
『安倍晴明』といえば「陰陽師」✨
数々のドラマや映画、文献と大人気の「人神(ひとがみ)」と呼ばれる実在したお方です。
安倍晴明は、平安時代の陰陽師。
「晴明」を『せいめい』と読むことが多いですが、特に「これ!」という正解はないようです。
吉凶を占ったり、陰陽道の祭祀を行なったり宮廷で活躍。
病気や物怪(もののけ)の調伏を行ったりしていたそう。
職神(精霊の一種)を使って霊災の除去など、多才さを発揮していました。
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。
官位は従四位下、播磨守。
そんな『安倍晴明』から琴が聞いたお話✨
世の中は流動的に動くもの。
時が流れている以上、止まることはない。
人の呼吸が止まれば死を意味するのと同じように『時』は止まることなく流れ、全ての命も生きるために『時』を刻む。
それは霊魂(たましい)とて同じこと。
霊魂になったからといって止まることはない。
ただ、本来行くべき場所に行かずに留まった霊魂の『時』は止まったまま。
何年も何百年もその場に留まり、人に被害被る存在になる。
元は才も智慧もある人間だったことを皆を含め自らも忘れている。
才も智慧も誰もが持ち合わせている。
どんなに才があってもこの世のもの。
どんなに智慧があってもこの世だから役立つもの。
だから生きている間にやりたいことをやる。
思うことを言う。
自らの智慧で考え、知り、分かち合う。
言葉が使える 言葉が通じる 思いを通わす
その場があるから役立つ。
そこには才も智慧も無ければ、場を乱すだけ。
自らの才と智慧を知らぬが故に、知らぬことで迷惑となる。
命ある時に出来なかったことは、霊魂になった時には叶わない。
故に、生きるということは自らを知り、知るからこそ調和を取り共に『生きる』時を刻む。
その場に立ち止まることもあるだろう。
だが、常に時は止まることなく進んでいく。
心のまま思いのまま生きて進む。
心から思い願おう。
ということです✨
遠慮も大切ですが、心からの言葉と心地よい思いで生きていくことって大事ですね✨
『死神』と聞いたら、「死を招く」「魂を抜かれる」など、あまり良いイメージはありません。
ですが、『死神』も神様なんですよ😊
『神』と付きますからね🤣
単純に「神」と付くから神様認定してますが、魂についてはエキスパート的存在です。
琴の「土地浄化施術」に来てくれる神様の「死神」にはちゃんとしたお仕事があります。
それは、人の命を狙っているとか取っていくというものではありません。
人は「想念」というものを持っています。
そしてその想念は、時には恨みつらみとなることもあり、知らないうちに土地に根付き、地縛霊となることもあります。
ごく最近の念は浄化で無くなることもありますが、古くからの念はなかなか気づきにくく、ほんのカケラの念が何かのかたちやキッカケで大きな念になり、その土地に根付く念に引き寄せられた霊が居付き、地縛霊になることもあります。
そのような、天に上がれなかった霊や念、未練から上がることを拒否した魂や地縛霊となった魂などを土地から離し、連れていってくれるのが死神です。
そんな死神から琴が聞いたお話✨
魂の存在を知らないものたちが肉体を離れ霊になった時、初めて自分の本来の姿を知る。
その魂は、素直に天に上がるものもあれば、またしがみつくものもある。
人間だった時の思いや感情を、慣れ親しんだ地に置いていくもの。
強欲が祟り、人間が住む世界から離れることを拒否し、生きている時と同じ思いで守って来たものを死して尚守ろうとするもの。
離れがたい思いから、人にすがり取り憑くもの。
これだけに限らず。
これら皆の生きている時の想念が土地に根付き、その地に住む者、関わる者全ての人間に影響する。
神はそれらを浄化に導き昇華、または改心させるのが役割。
ただ、我は違う。
さまよう魂を救うのではなく、エゴ欲で我が姿が醜く救い難いものになった姿から、改心した魂を天に導く。
または、悪行から改心を恐れている霊や魂を改心の場に連れて行く。
これは、魂にとっては良いことであるが、霊にとっては脅威でしかない。
その脅威がもたらす恐れは、人間界では「死」と同じである。
このようなイメージから死神として、恐れられているのであれば、それも良かろう。
恐怖は自らの命を守る。
天寿全うしてこその命。
その命、我に刈り取られたくなくば、どんな苦労苦しみも乗り越えるだろう。
生きる心意気が見えた時、我はそこに住む者の魂に手を貸す。
赤子がまっさらな姿で産まれるよう、そこで生きる者の思いが悪露(おろ)無しの生粋のものであれば、土地もそのように整えることが道理。
死と全うに向き合う者の生き様や想念に淀みが無ければ、死は恐れではなくなる。
それは既に生きる覚悟がある証。
魂に歪みや迷いが無い証。
今回その証をしかと見届けた。
しかし、覚悟が揺らぎ、死を恐れるあまりに欲深くエゴの思いで道理を崩すことがあれば容赦はせぬ。
思いのタガが外れ人としての道を外した時、今日受け取った全ての念と悔恨にまみれた悪しき霊魂共を再びこの地に戻す。
その時、この地に住まう者の命、貰い受けに来よう。
これがお主らの知っている死神の姿。
覚えておいてもらおう。
とのことです😱
色々難しいけど、とりあえず生きます😅
昔々、ある所におじいさんとおばあさんがいました…
から始まる昔話。
その昔話は民話のひとつですが、【土地浄化施術】において来てくれた方の中で、『花咲か爺さん』がいます。
ただ、本物の花咲か爺さんか?というと定かではありませんが、どう見ても花咲か爺さんにしか見えない神様が来てくれました。
今日はそんなお話✨
この『花咲か爺さん』
出会いは、とある場所にある日本庭園です。
見つけたのは琴ではありませんが、ある方がその場所に行った時に「どう見ても花咲か爺さんにしか見えないのがいる!」と教えてくれ、連れて行ってくれました。
最初は目を疑いましたが、どう見ても『花咲か爺さん』にしか見えないお姿。
そのお爺さんに「あなたは花咲か爺さんですか?」と話しかけましたが、ニコニコしてるだけで何も答えません。
このお方は、その場所を守る土地神様です。
名も無い神様ですが、神は神✨
この神様を琴は『花咲か爺さん』と呼び、その場に行くことがあれば必ず寄ります🤣
そんな「花咲か爺さん」と呼んでいる神様から琴が聞いたお話✨
近くに来た時、また今回も来ると思おておるがいつも会いによう来る。
それもまた楽しみになっておるぞ!
そして、今日はとても大切な日。
今回はわしが出向いたというわけじゃ。
約束だからの。
前回来た時に言うてたじゃろ?
「大切な物事があった時。それもそなたが大切にしている者が助けを乞うているときは出向くぞい」と。
約束は約束。
思いは繋がっておる。
それは人も同じこと。
これが「縁」じゃな。
縁とはどう結ぶかではなく、そこにはちゃんとした理由がある。
人との縁もそうじゃが、物や土地など様々なものに縁はあるのじゃ。
そこには『大切』にするという思いと『大事』にするという思いが重なることで引き合う思いが『縁』になる。
『大切』とは、粗末にしない、存在が大きいこと。心に残る大きな思いじゃ。
『大事』とは、価値があること、かけがえのないものとして認める。心が豊かになる糧となるものじゃ。
どちらが欠けても縁は結ばれぬ。
どちらもあっても思いがひとつにならなければ縁にはならぬ。
ひとつになるということはなかなか難しい!とはこういうことだ。
二つがひとつになったからわしはここに来た。
さてさて、そなたたちの仕事をゆっくり見せてもらおうかの。
いつも持っている思いで、皆の幸せを願い精一杯やることじゃ。
というお話のもと、施術は始まりました。
ありがたいお話を聞くことが出来たのと、いつも会いに行ってよかった!という思いで心が嬉しくなりリラックスして施術が出来たのは、いうまでもありません。
ご縁って大切。
大事にしたいですね❣️
というお話でした✨
『日本武尊(やまとたけるのみこと)』
まだ、日本という国がなかった時代。
国生みの神イザナギたイザナミによって多くの神々が誕生しました。
彼らにはそれぞれの役割や力が与えられ、日本国を統一していきます。
そのひとつに日本武尊がいます。
第12代景行天皇の皇子で、この時代の戦果は著しく、ピンチが迫っても数々の機転で乗り越えたため、「難局打開の神」として英雄視されました。
そんな『日本武尊』に琴が聞いたお話✨
世の中の規律が乱れておる。
だが、その規律を見出すものにも自我があり、それがプライドとしてその本人を動かす。
自分の考えひとつでいく通りの結果を出す。
それが自らの結界を作り、自分というものを守る。
これがプライドだ。
プライドの原点は、幾多の人々の思いを無下にすることなく行動することは、自らの可能性の試しになることを知った時。
その試しを経験することで、自分というものの限界を知る。
知ることは良いことと言うが、やり過ぎは身の毒になる。
これを知った時には、既に身体は限界を迎え瀕死の状態になっていることが多い。
そして、人は限界を迎え乗り越えられた時。
それが過信となり勘違いをする。
まずは自分を知ること。
そして、人の思いを我が身の如く受け止め、その願いを叶えるために身を粉にして尽くすことは、人のための限界か自分のための限界かを見極めることがなければ身の破滅につながる。
何事も我が身を見つめ、断ることも我が身守る手段といえよう。
勘違いの向こう側にある限界に富はない。
幸せになりたければ、過信を捨てよ。
そして本気でやりたいと思うことに我が身を捧げること。
これが自らの限界を超えた実りを得ることになろう。
プライドを超えた本当の自分でやりたいことをやり、断ることを躊躇せず自分らしく生きていける。
ということでした✨
プライド…
知らないうちに自分の心の内側に芽生える限界。
限界を知るのは良いと思いますが、必要の無いものを大切に持ちながら、本当の自分が見失われていくのは本心ではないですね💦
頼まれたら断れず、また自らを過信してこの世を去った日本武尊だからこその言葉と受け止め、まだ知らない自分を探そうと思います✨
今回は、神様から離れて「妖怪」と呼ばれる『河童』のお話😅
なぜ【土地浄化施術】に河童がいるかというと、河童は邪念や邪気を消す天才です。
水を好み水を扱うという意味では、浄化に長けている生き物。
ですので、特に土地浄化施術には来てもらうことが多いですが、いつも来る河童は一匹(一人?)
こういう点では、みんなが知っている河童のお話と琴が知っているお話は少し違います。
確かにいたずら好きで人間を騙して悪いことをしたりという伝説はあるようです。
今回の『河童』は、悪いことをしたことの償いをするためにお釈迦様から言われて来た河童のお話です。
河童は元々自分の居場所をとても綺麗にする性格で、少しでも汚れていたりお水が濁っていたりすると、周りには目もくれずひたすらお掃除に明け暮れます。
家があれば家を壊し、自分のテリトリーに何か邪魔な物があれば手当たり次第ゴミ扱いをします。
そこには人間の命にも関わるような酷いこともあり、そんな河童の行いに目をつぶれなくなったお釈迦様が言いました。
お釈迦様「なぜそなたは暴れる?周りを見てみよ!泣いている人間がいるでは無いか?」
河童「わしの場所に家を建てるのが良くない」
お釈迦様「では家では無く仲間がいたらどうする?」
河童「わしに仲間などおらぬ」
お釈迦様「では子供はどうじゃ?お主は子供と遊ぶこともある」
河童「遊ぶ子供は決まっておる。心のきれいな子供としか遊ばん」
お釈迦様「では、そこで泣いている子供はどうじゃ?そなたが遊んでいた子供では無いのか?」
河童「どの子供じゃ?そんな子供はおらぬ」
お釈迦様「ほらそこで泣いておるじゃろ。泥だらけで汚いなりをしているが、そなたが遊んでいた子供に間違いなかろう。」
よくよく見るとそこには壊された小屋があり、その小屋の下敷きになって息絶えた犬がいました。
その犬を必死で助けようと泣いている子供が1人。その子供は泥だらけで顔がわからないくらい酷い有様でした。
河童は、泣いている子供が嫌いでした。
うるさいしわがままだからです。
そして、犬は河童の天敵です。
河童にしてみたら犬が死のうがそんなことはお構いなし。
河童と遊んでいたという子供は、いつもニコニコしていて河童を毛嫌いすることなく、貧乏ながらにいつも身綺麗にしていて、食べ物を河童にくれる時もちゃんと手を洗い渡してくれたり、何よりも素直で優しく他の人間の子供たちと同じく、仲良く接してくれる心優しい子供でした。
お釈迦様の言葉が気になり泣いている子供のそばに行ってみた河童が見た物は、息絶えた犬と汚い子供。それからその犬をかばおうと家の下敷きになっている人の手。
河童はその手に見覚えがありました。
いつも河童と遊んでいた時に子供を迎えに来ていた優しい手。
河童もその子供の親の優しさに憧れていました。
いつも河童と遊んでいても、河童を毛嫌いせずお礼を言ってくれていた優しい声を思い出しました。大人でも心のきれいな人間がいるのだと初めて思えた優しい手の持ち主。
だから遊んでいる子供の心もきれいで一緒にいられるのだと、人の心というものが少しわかってきたのもその子供の存在と憧れの手の持ち主があるからと悟り始めてきていたところでした。
そして河童は自分の目を疑います。
自分が悟り始めていた憧れの手の持ち主が明らかに小屋の下敷きになり、そして仲良く遊んでいた子供が大切にしていた犬が生き絶えています。
そこに泣いている子供。
犬は大嫌いでしたが、優しい心の持ち主の犬の顔は覚えています。
正に目の前で息絶えた犬がその子供の飼い犬で見覚えのある手が動かずそこにありました。
そう。
顔まで泥まみれにして泣いて助けようとしているのは、仲良く遊んでいた子供だったのです。
実は、崩れた建物は子供の父親が、我が子と遊ぶ河童が嫌で、河童をその場所から追い出すためにワザと建てた小屋でした。
そして河童の嫌いな犬をそこに置き、子供と河童を引き離すために仕組んだことだったのです。
河童は決まって月の何日か村から姿を消すことがありました。
それを知っていた子供の父親は、河童がいないのをいいことに、河童の住まいである場所に小屋を建てました。もう少しで出来上がるところに河童は帰って来たのです。
そこで河童は建てられた小屋を見て、人間の意地悪と取り、頭に血が上り衝動的に壊したのです。
その時、その小屋には子供の母親と犬がいました。母親は父親の魂胆で河童の居場所が無くなることを不憫に思い、河童の寝床や食べ物を用意していました。そして、帰ってきた河童が犬に驚かないようにと犬を小屋から連れて帰ろうとした時の出来事でした。
一緒に来ていた子供は幸いなことに、先に小屋から出ていたので助かったのです。
そんなこととはつゆ知らずの河童。
気づいた時には大変なことになっていました。
河童は子供のそばに近づき立ち止まりました。
子供は河童の方を見て言いました。
「河童と仲良くならなきゃ良かった。おとうの言う通りだった。おかあが死んだ。犬も死んだ。あんたなんか大嫌い!」
あんなに優しかった子供から聞いた言葉は、耳を疑うものでした。
その言葉を聞いた河童は、居ても立っても居られなくなりその場から逃げました。
どこまでもどこまでも、力尽きるまで逃げました
。いくつもの山を越え、見たことがないところまで来たところで力尽きました。
その時にお釈迦さまが来て言います。
「どうじゃ、お前のしたことは。」
河童は残り少ない命で答えます。
「もう二度と人間の前には現れません。ただ、あの子供には申し訳ないことをした。あの優しさにはもう二度と会えないと思うと悲しい。自分の出来ることはありますか?」
お釈迦さまは答えます。
「そなたは自分のこととはいえ、邪気邪念を消す才能がある。子供と、その親と可愛がっていた犬の命の代わりに良い事をすると言うなら私が面倒を見よう。その代わり、自らの欲とエゴを持つことで、この地に残り、邪念邪気にまみれた世界で今までの所業許されることなく暮らすことになるがよいか?」
河童は答えます。
「邪念邪気にまみれた世界で暮らすのはまっぴらごめん。お釈迦さまの言う通りにします。」
お釈迦さまは言いました。
「では、私のお遣いとして人のために目に見えない邪気邪念の掃除をしてもらうとしよう。そなたの心を信じよう。」
こうして河童はお釈迦さまのお遣いとなりました。
それからというもの、河童は人間の前から姿を消し、二度と目の前に現れることはなくなりました。
というお話です✨
鬼子母神に続く第二弾。
琴の神様から聞いた昔話でした😊
今回は、『土地を見守る神様』のお話✨
今までは、【土地浄化施術】において協力してくれた神様や聖獣や神獣、明王様や菩薩様や七福神様たち等、様々な神様達のお話をしてきました✨
今回は、その土地に根付いている「神様」と呼んでいる方のお話。
氏神様とは違い、その土地に住む人や代々のご先祖様が守ってきた場所には「土地神様」と呼ばれるものがいます。
それは「白蛇様」だったり「龍神」と呼ばれるものだったり色々です。
今回の土地神様は、それらとはまた違った神様のお話です。
この神様は、元々その土地にいらした訳ではなく、この地に住む人でこの先の未来の人々の「先祖」となる者が来るという天からの指示で来られた神となる存在だと言っていました。
姿に形は「人」そのもの。
知らない人がいるな〜なんて思って見てましたが、実は神様だった😆笑
土地浄化施術は、天からの神の指示で始まります。
この日は朝の4時からの施術。
お家を建てられるお客様ご家族皆様には、朝早くから集まっていただき、有難い限りでした。
まだ日も上がらない真っ暗な状態から準備をし、朝日が昇り始める少し前から施術を開始。
既に準備段階から施術は始まっています。
今までの経験上、氏神様やお不動様が先に来ていることはありましたが、何やら知らないお方が土地の真ん中にポツリと立っています。
様子を見にきたご近所さんかと思うくらい「人」😅
集まったご家族もその方の存在に気にも止めないので、知り合いかと思ったくらいです。
でも、実は「見えていない方」だったようです😅
良く良く考えたら、前日に、施術にあたり邪気や邪念が入らないように結界を張ります。
その後には、元々いたもの以外のものは入れないことになっていますが、土地の真ん中にいらっしゃいました。
そして、施術をする際に、神々が入れる様に結界を解きます。
その時に、トコトコと近寄ってきたその方が言いました。
「この土地のご先祖様となられるお方にお力添えありがとう。今日はよろしくお願いします。」と。
普通に「はい。よろしくお願いします。」と頭を下げて作業に入りました。
なんの違和感もなく施術が始まり、気が付いたらその方はいなくなっていたのです。
施術も終わりその方の存在は忘れていましたが、今日までの土地浄化施術において協力してくれた神様のお話を書いてきて「あれ?」と思い出したのがこの方。。。
実は「正真正銘の土地を見守る神様」だったと今気づくという😱💦💦
こんな経験も無く、改めて良い経験をさせていただいたご家族と神様達に感謝です。
ありがとうございます✨
そして、まだ【土地浄化】に関わる神様のお話は続きます😆
『お釈迦さま』という言葉を聞いたことあると思います。
『釈迦如来』とはお釈迦さまの呼び名のひとつ。
「如来(にょらい)』とは、悟り(さとり)を開いた人のことを指した言葉で、人間が悟りを開けば如来になれると信じられています。
悟りを開く直前の修行中の人を「菩薩」と呼び、悟りを完全に開いた人のことを「如来」と呼びます。
真の悟りを開いた人全般を如来と呼び、特定の固有名詞ではありません。
釈迦如来の他、よく知られている如来様に
薬師如来
阿弥陀如来
大日如来
がいます。
そんな『お釈迦さま』に琴が聞いたお話✨
人はひとりひとり自分と他人を分ける。
それは魂がひとりひとり『個』である証。
だが、悟りを開き神なる存在になった時、
人はひとりではなく『皆』となる。
これは『皆(かい)』と呼び、『すべて』となる。
人は姿形が違えど持つものは皆同じ。
同じ体があり言葉を話す。
通じる通じないではなく「言葉」を通じ会話をする。
そして同じく心がある。
心があるから通じ合う。
その心を以て「魂が通じ合う」という。
皆が死して逝く場所には魂がある。
住む場所違えど逝く時間が違えど、同じ大地で生きている。
見た目や環境の違いはあって良かろう。
そこで学ぶことがたくさんあった方が人生は楽しいもの。
苦楽を楽しみ苦楽を喜ぶこと。
なによりも得難い有難いこと。
なによりも生きて楽しむことが至極とはこのこと。
悟りを開いたからといってそこで終わりでは無い。
悟りを開くまでの苦行こそ楽しいことだと思えるだけ。
苦労を乗り越えた時と同じこと。
人にはひとりひとり与えられている苦行がある。
それは喜びに変わる糧でしか無い。
苦労しなさい。
悲しみや辛さを噛み締めなさい。
そこでしか分からない感情から感謝を知ることが出来る。
喜び楽しみを知っているから辛く苦しい。
この感覚を楽しみなさい。
今しか出来ないこと。
生きている今だから感じられることを喜び、
そして目の前の『皆』に伝えなさい。
それが今自らが出来ることであり、やるべきことです。
ということです✨
はいっ‼️
楽しみます❣️
伝えます‼️
ブログで😆笑
『観音様』という言葉を聞いたことがあると思います。
昔話にもお地蔵さまと並んで出てきたり、嘘つきや悪いことをした者に対して、天罰を与える神として出てきたり、苦しみから救いの手を差し伸べる神として登場することがあります。
大乗仏教において特に崇拝されている菩薩の名で、世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者の意。救う相手の姿に応じて千変万化の相となるという。阿弥陀仏の脇侍ともなるそうです。by コトバンク
また、観音とは観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の略で、人々の苦しみを除いたりお願い事を聞いたりしてくれる慈悲深い仏様のことです。
そんな『観音様』から琴が聞いたお話✨
神を神として崇めることをやめなさい。
神は皆ひとりひとりの胸の中にいるもの。
手の届かない場所に神はいません。
ひとりひとりの心に住まうもの。
心に悪があれば、それを打ち消す神もいます。
心に闇があれば、それを消す光となります。
心が豊かなれば、その豊かさを自分以外の人に与える勇気になります。
心が喜べば、その喜びを自分以外の人と共有します。
そして心からの思いやりを持てば、それは自分と自分に関わる者たちを幸せにします。
神とはそういうもの。
その神が自分を通して仲間やそれ以外の者たちの心に見えた時、人は「縁」を結び、これを『引き寄せ』と呼ぶものもいます。
縁は自らが持っているものに集まるもの。
気持ちが通じ合うもの
話が合うもの
趣味が同じものも然り
気持ちが合わないもの
話がが通じないもの
気持ちが見えないもの
これらも全て「縁」で導かれ、そこには学びがあります。
どれを取るではなくどちらも自分に必要なもの。
良し悪しは自分が決めるもの。
出来たら良いものを求めるのも、また心情。
心からのことをしなさい。
心から思うことをしなさい。
それが本来の自分の姿です。
ということでした✨
はいっ!やります😆
ブログ書きますっ笑
「仏様」とはよく聞く言葉だと思いますが、この仏様には順位があります。
最も位が高い『如来様』
その下に『菩薩様』
またその下に『明王様』
そして最後に『天』
「天」は、大黒天や毘沙門天がこのグループ。
「明王」は、不動明王や愛染明王。
「菩薩」は、弥勒菩薩や観世音菩薩(観音様)
地蔵菩薩(お地蔵様)
「如来」は、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来と分けられます。
今回は、菩薩様である『地蔵菩薩様』お地蔵様のお話です。
お地蔵様は、昔話にも良く出てくる庶民の人気者。
誰の目にも止まり、また誰からも愛される身近な存在です。
昔は、その村を守る氏神様の代わりに人々の身近な存在として民の生活を見守り子ども達の健康を守ってくださる神様として崇められていました。
地蔵菩薩とは、釈迦が亡くなってから弥勒菩薩が現れるまで無仏になる間、全ての生き物を救うと言われている菩薩で、道端などに良く見られるお地蔵様のことです。
大地のように広大な慈悲で救済するということから、この名前がつきました。
僧侶の形をして、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っている愛らしい姿で広く知られています。
地蔵は、地獄の責め苦の救済を求める対象なり、親より先に死んだ子供達を守るのが地蔵菩薩であるとされています。
六道輪廻の思想から、あの世への旅立つの場として。
また、六地蔵像があるところでは、死ぬと六種の世界は生まれ変わることから、その都度六つの地蔵に救ってもらうため。
そして、町外れや辻という町の結界には、地蔵尊が守護神として祀られているのをよく見かけます。
そんな、町の守り神『お地蔵様』から琴が聞いたお話✨
最近の子供達は外で遊ばぬな?
我ら地蔵のことを知らぬ者も多いだろう。
ただの石の塊だと思うておるのもいる。
それでも人は災いや病気になると神だ仏だと神社や寺に行き、ご利益ばかり求める。
わしらのご利益は、皆を守り、その守りに感謝する者の健康と厄を災いから守ること。
こんなに身近で神に触れることは無いというに、非常にもったいない。
皆、地蔵のもとに川を渡りあの世に行くというに、知らぬが仏とはこのことじゃな。
それでも尚、手を合わせ1日の健康と安全を守るために寄るものもいる。
ありがたいことじゃ。
いいか?
ここからの話を良く聞け。
地蔵は手を合わせてほしいからいるのではない。
この世を旅立つ命がある限り、必ず地蔵の元に寄りあの世に旅立つ。
その時、生きて命を繋ぐ者に対して魂となった者はいつもこう言う。
『どんなに辛くても魂になれば、そこからまた新しい修行に入る。生きて辛く苦しいことも、死んだらそれは感謝に変わる。生きていれば手を合わせ感謝する場もある。生きていれば言葉を交わし心安らぐ相手もいる。言葉発すれば皆の耳に届き自らの思いを言葉に出すことも怖かろう。だが、魂になれば自らの言葉は神仏にしか聞いてもらえず、またその願いは聞いてはくれぬ。生きている時にしか出来ぬこととは、しっかり自らの思い考え方を伝えることじゃ。
これができぬ故、後悔未練としてこの世に魂を残すことになる。
これが成仏出来ぬということ。
まずは地蔵に心の中で悩み苦しみを打ち明けよ。
死人に口無しとはよう言うたもの。
この世では地蔵にも口無し、他言無用じゃ!
神仏も同じこと。
願いを叶えるのは自分。
じゃが、願いを打ち明け自らの約束にすること、聞き届けた神仏は必ず応援する。
なぜならば、神仏に打ち明ける願いは、自分の内の神なる存在「魂」との約束となる。
魂が偉いのではない。
その魂を宿して苦難を乗り越える己こそ、神なる存在。
自分を卑下することなく、応援してくれる者たちがいることに感謝せよ。
それが仲間というもの。
毎日地蔵に手を合わせていれば、同じ地蔵に手を合わせにくるものと話すこともあろう。
これが仲間というもの。
やり続けることの大切さは、自らの意志で作り動いていること。
途中で投げ出しても良い。
経験は積まれ、それが身になるまで続けることが困難だっただけのこと。
自分に正直にとはこのこと。
やれば達成感。最後までやらねばそこまでの経験。どちらも自分が分かるというもの。
生きているということは全てが恵み。
成し遂げたければ行動のみ。
我はいつも皆をみておるぞ。
とのことでした✨
ブログ頑張りまーす❣️
今回は『雷神様』のお話✨
風神の対極には雷神と言われ、二神で一対となります。
雷神は雷様として有名ですが、『雷電様』や『雷公様』『鳴神(なるかみ)』とも呼ばれています。
風神が風を司る神様ならば、『雷神』は雷と水を司る神です。
日本書紀で雷神は「ホノイカヅチノオオカミ」といい、雨乞いの神や稲作の神と言われています。
雷や水災害が起こらないように祈る事や、農作物の豊かな収穫を意味して雷神を祀る神社も多く、社名に雷神と入っているところもあります。
そんな『雷神様』から琴が聞いたお話✨
全ての恵みは『水』からある。
水無くして生き物は生きていけぬ。
その水を怒らせ恐怖させるのは人間。
自らの私利私欲のために山を崩し川の流れを変え、自然の摂理を崩しているのも人間。
空の機嫌も地からの反映。
雷もまた警告の一部。
風神と共に我らタッグを組むことで、恐ろしいエネルギーが発生する。
竜巻、スコール、様々な自然現象が現れる。
混沌とした世の中。
我が身を見つめ直す機会を、過去には自然になぞらえ自然からの教えで自らを正した。
そこには神があり、神がいた。
今はその機会にも恵まれず、神として崇められしか者どもも地に降りることが少なくなった。
自然を感じることは人の五感に問う。
自然を愛することは人の感情に触れる。
優しさや思いやりは自然と出てきてこそが、相手に伝わるというもの。
怒り憂いは滞った思い。
溜まったいるので有れば出せば良い。
涙にも意味がある。
涙は人の身体から溢れ出た水。
我の領域。
怒り涙している自分があれば、雷雨と同じこと。
人の身体には八つの神が宿る。
それらすへに「雷」が付く。
痛みには涙付きもの。
痛みに怒りを乗せる者もあるだろう。
悲しみには涙付きもの。
怒りの悲しみもあるだろう。
辛さには涙付きもの。
辛さの原因に怒り抑えられない者もあるだろう。
苦しさには涙付きもの。
苦しさから逃れられず自らに怒りを持つ者もあるだろう。
嬉しさ、喜び、感謝に涙するもの。
そこに感じる愛で涙することもある。
それだけ人は感情の生き物。
ゆえに水無ければ生きていけぬ者。
涙するもの全てを忘れ消し去る。
風の神もそこに存在する。
雷神と風神は皆の元にあること、覚えていてほしい。
感情を出すことに恥じてはならぬ。
そこに自然の力の助けがある。
自然とは神。
自分らしく自然に生きる。
神と共に生きる自分に気づいてほしい。
とのことでした✨
納得✨✨✨
風神は『風を司る神』として有名です。
他には、「風の精霊」や或いは妖怪をそう呼ぶこともあるそうです。
古事記や日本書紀に記された神話の中では、シナツヒコが風神とされています。
古事記では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしています。
日本書紀では、神産みの第六の一書で、イザナミが朝露を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)級長津彦命(しなつひこのみこと)という神が生まれ、これは風の神であると記述しているとされています。by Wikipedia
妖怪としては、空気の流動が農作物や漁業への被害を与えるという、中世の信仰から生まれたもの。「カゼをひく」の「カゼ」を「風邪」と書くのはこのことが由来と言われており、江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしたそうです。by Wikipedia
文学では、悪心として風神を鎮めるための祭事があったり、風の神は『邪気』のこととしていたり、疫病発生の暗示と言われたりしているようです。
あまり良いイメージではないですね😅
そんな風神様から琴が聞いたお話✨
災害や病気は人間が作り、自らの元に引き寄せる。
空気を乱し、自然を壊し、そして自らの身体を弱らせる。
これらの原因を風は運ぶのみ。
自然のままに流れ吹く風をどう捉えるかは人間次第。
良い気を求めるのであれば、良い気が作られる環境にしたら良い。
悪い気を浴びたくなければ、皆が心一つに良い事をしたら良い。
だが人は様々。
風の吹き方も様々あるように、意志あるものには個性がある。
それもまた良いではないか。
悪があって神がいることを知るのと同じこと。
悪があるから神を求める。
神ありきの世界はなんら変化も無い、つまらない世になるだけじゃ。
いいことばかりだと、何が良くて悪いのかすらわからぬ。
それこそつまらないこと。
心地よい風が吹けば、皆気持ちが豊かになる。
激しい風に当たれば、皆不快になる。
だが、逆も然り。
皆が良いと思うことに不快なものもおる。
皆が不快と思うことに心地よさを感じるものもおる。
皆自由で良いではないか。
病気になる者はその後身体を労わり
病気を知らない者は無理をする
また、病気ばかりしている者は無理をしない代わりに自信を無くす
病気を知らない者は自らやりたいことを精力的にやりこなす
そして身体の弱い者は、やりたい事をやっている者を憧れ、自らを憎み憧れている者をも憎む
健康な者は病弱な者を哀れみ、そして自らの健康を自慢しながら病気への憧れを持つ
人は無い物ねだりで理不尽な生き物
何が正解かは、誰も知らぬ。
自らを何者かわからぬ者に我が姿がわかるはずも無く、風はただの風であり目に見えぬ存在としているのみ。
ただ、その風の力で命を育み子孫を増やすものもおる。
風が無ければ草木も育たぬ。
育たぬ食物がなければ命も果てる。
風が無ければお主らも生きては来れなかったであろう。
何を良しとするかは、目の前にあるものだけではなく、心の動きに反応する知識と理解で成り立つ。
心の隙間に風が吹き辛ければ塞げば良い。
心が冷たく凍りつくなればそれを吹き飛ばす風に当たれば、全てを忘れるであろう。
自らの持つ風のまま
自ら願う風にあたる
思うままに生きれば良い。
とのことでした✨
確かに✨✨✨
前回は、稲荷神である『お稲荷さん』の眷属狐のお話でした✨
今回は、その眷属を連れて来てくれた
『九尾の狐』のお話✨
日本の神話や伝承にはたくさんの狐が登場しています。
その中でも稲荷神社などで人に親しまれている一方、妖怪として人に災いをもたらす恐ろしい狐もいます。
まず、狐神の中の『妖狐』とは?
狐が神になった「霊狐」の事で、300年以上生きると妖術を身につけることで『妖狐』になると言われています。
妖狐には「善狐」「赤狐」「白狐」と様々な狐神がいますが、『九尾の狐』のお話です。
尻尾が9本ある狐で、九尾の狐と知られ、白面金毛九尾の狐がいます。
「九尾の妖狐」や、単純に「九尾」と呼ばれます。
中国の格王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが太平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされます。
九尾の狐は、一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされています。
このような九尾の狐。
では【土地浄化】でどのような働きをするかというと、、、
今回連れてきた7尾の狐の監督兼補佐と同時に、野孤を見張り、土地から現れる邪念邪気、想念の見落としが無いかの確認と共に、浄化に必要な結界に対してのエネルギーを張り巡らせてくれます。
そして、土地の端々に結界を張るための印を付けてくれたりと、普段目を向けないところや忘れそうな部分に対して目配りをしてくれたり、補強をしてくれたりととても大切な存在です。
そんな『九尾の狐』は、いつも土地浄化のお手伝いに来てくれるわけではありません。
今回は土地浄化をするために呼ばれた神社やお寺何社かを参拝しましたが、その都度、土地浄化に必要な神様やお手伝いしてくれる神獣等が集まるようお祈りしてきました。
その中に、『九尾の狐が来てくれたらいいな〜』なんて考えていたのも確かです😅
施術日当日にお姿見た時は、「まさか!」と目を疑いましたが、本当にいらしてくださいました✨
九尾の狐にご挨拶に行った時、目が合いましたが、とても素敵なグレーっぽいブルーでしたよ✨
お話は出来ませんでしたが、狐神様にお会いすることもなかなか無いのでとても貴重な時間でした😊
ありがたや〜✨
神々に感謝しかありません✨
というお話でした😊
お稲荷さんといえば『キツネ』を思い出す人も多いはず🦊
お稲荷さんの語源は『稲(い)生(な)り』で、稲の豊穣を守る神様です。
これが『稲荷神』です。
稲のような食物を司る神を古くは
「御饌津神(みけつがみ)』と言ったそうです。
この神名に「三狐神(みけつがみ)』の字をあてたので、いつしか狐が稲荷の神使いになったそうです。
この他にいくつか伝承があり、
・狐は野ネズミを襲うので、狐が稲の守り神になった。
・2000年以上昔、京都伏見の地に狩猟民たちがいましたが、狩猟民たちは山の狼を神の使いとしていましたが、稲作の定着と共に狼は山に追いやられ、代わりに里に住む狐が稲の神の使いになった。
というお話があります。
ところで、、、
琴の土地浄化施術には様々な動物の神様もお呼びしますが、なぜ狐か⁉️
それは、霊的な存在への働きをしてくれるのがお狐様だからです。
よく、狐憑きや狐に祟られるなんてお話は聞いたことがあると思います。
このような狐を「野孤(やこ)」と言います。
動物の魂階級の話をすると、一番下の低級霊として扱われています。
全てのお狐様がそうではなく、九尾の狐のいわれる尾が9本ある狐は特殊な霊力を持ち、人の心を読み取り悪霊や邪気に対して非常に強い懸念を持ち退治するというものもいます。
この他に、天狐・空狐・気孤など様々な狐神がいます。
今ここでお話する狐様は、野狐を扱う狐様。
なぜ野狐が低級霊なのか、人に影響を及ぼすかというと、
動物霊の中で人間に一番身近でずる賢いという理由から、狐が身近だったこと。
また、思いを念として持ちやすく、その由来は様々ですが、狐をいじめると必ず仕返しに来る!なんていうお話があるように、人に意地悪をしたり災いや不幸をもたらしたり、執着という点で恨み辛みを持つということで、人に近い念の存在とも言われています。
そして、施術に呼ぶ狐様は、その野孤ではなく九尾の狐の配下にあるお狐様で、尾が7本の狐です。
琴がある神社に行った時に話しかけてきた狐がいました。
その狐は言います。
「何か困ったことがある時には、私を呼びなさい。」
その場所は稲荷神社として有名なところでしたので、別に不思議な感じはありませんでしたが、怪しさMAXではありました😅
その時に別の狐様が出てきて、こう言いました。
『お前は狐を操る。悪霊、邪気、邪念、邪想持つ者全てお前の元に引き寄せられる。そのためにはいつも狐を抱えてよ。いつか役に立つ。』
と言われ、へぇーそうなんだ?なんて思っていましたが、昔からお祓いに行くと「あなたには狐が憑いてます。気をつけなさい。」と良く言われていたことを思い出し、なるほどね!と納得しました😅
それからは、狐が憑いているとは言われなくなりました笑笑
今思えば、この時の狐様は9尾の狐様だったかも知れません😅(色は白くて尾がたくさんあった!)
そして、この7尾の狐様。
低級霊と言われる野狐を使い、土地に根付く想念や邪気邪念を消してくれるお役目があります。
そのためにお呼びした狐様でした✨
大変助かります♪
今回は、狐様のお話でした✨
次回は、狐繋がりで『9尾の狐』のお話✨
「お伊勢参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参り」
と言われた『金剛證寺』は、伊勢神宮の鬼門をお守りしているお寺です。
神宮の奥之院ともいわれ、参宮する人々は当寺に参詣するのが常でした。
御本尊の福威智満虚空蔵大菩薩は、日本三大虚空菩薩の第一位として広大無辺な福徳・威徳・智徳の三徳を有する仏様です。
金剛證寺は、御本尊様と天照大神をお祀りし神仏習合の思想を表しています。
そんな虚空蔵菩薩様から琴が聞いたお話✨
世が世なら人も人。
神も仏も願う先は一緒。
ならば恩恵預かる場として皆同じ願いを望むはずが、あっちではこれ、こっちではあれとなぜ分けるのか。
ここは身を清め心改める場所。
なのに願いばかり先走り、目的目標が見えん。
そこに『間』が現れ、その『間』にやましさ・疎ましさが見え隠れし、己の欲となることを知らぬもの達が増えた。
その者がどんな願いを持っても、その望みは叶わぬということを誰もが知ろうともせぬ。
ここは約束の場。
自分が自ら望み、ただ一筋の希望を打ち明け自ら自信に導く場でもある。
我が寺に向かう前と着いた後では思いは変わる。
人の目的目標も同じこと。
辛さ苦しい道のりをただ歩むのではなく、自分と向き合い内面が表に現れた時、自らの心の内と向き合う。
なぜだどうしてだと自問自答を繰り返した時、下を向いていた頭は上を向く。
人は顔を表に上げた時見える景色に圧倒され我を忘れる。
その時に全ての思いが小さく女々しいものだと気づく。
そして改めて気づく。
何をするために目標を持ち目的としたのか。
そして心改め、また一歩を踏み出す。
我が寺に着いた時、皆同じことを思う。
「ようやく辿り着いた」と。
目的目標はそうして成就されるもの。
結果を急ぐ者。
満身創痍にがむしゃらになるべし。
目的目標持たずとも良し。
それがその者の性であり性分。
失敗から自ずと結果を出すことを知っている者。
結果をこだわる者。
欲を隠しエゴで押し切ること必須。
我が身の保身のみに心を費やし、心疲れて自滅の道を辿る。
自らの内面を無視し破滅を味わう。
結果に恐怖する者。
山の頂だけを眺め足を止めるのみ。
何も進まず何も変わらぬ。
自らが何者かを知らずに終わるのみ。
死して尚分かる己の魂。
ならば生ある時に自分がどの末路を辿るか、行かねばならぬ道が開ける。
そこには己の心情掻き立てる目標持つことで目的を全うできることを知る。
好きなことだけやる者。
満身創痍にがむしゃらになれる。
目標目的しか目の前にはない。
それがその者の性であり性分。
失敗しても自ずと結果が結びつくことを知っている者。
好きなことにこだわる者。
欲とエゴで押し切ること必須。
我が身の快楽のみに体を費やし、体疲れて心の自滅の道を辿る。
自らの内面しか見ず破滅を知る。
好きなことに恐怖する者。
山の頂だけを眺め足を止めるのみ。
何も進まず何も変わらぬ。
自ら何もできずに終わるのみ。
生きて尚分かる己の魂。
ならば死する時に自分がどの活路を見出せたか、やらねばならぬ道を切り開く。
そこには己の意欲を掻き立てる目標持つことで目的を全うできることを知る。
ということです✨
難しい…😅
鬼といえば「悪鬼」「邪鬼」と良いイメージがあまりありませんが、鬼から神になったお話もあります。
『鬼子母神』という言葉を一度は聞いたことがあると思います。
鬼子母神の物語は土地により内容が少しずつ変わっていますが、琴の知っている鬼子母神のお話はこうです。
ある日、人間の子供をさらっては自分の子供に赤ちゃんの生き血を飲ませ育てていた鬼女がいました。
見るに見かねた菩薩様が、100人からいる鬼女の子供を一人だけ隠しました。
人間の子供をさらいに行って帰ってきた鬼女が、子供が一人いないことに気づき探し始めます。
気が狂ったように子供を探してまわり、探しても探しても子供は見つかりません。
とうとう鬼女は、身も心も疲れ果てお釈迦様の元に相談に行きます。
そこで聞いたのが「菩薩様に会いに行きなさい」という言葉。
鬼女は菩薩様に会いに行くのをためらいましたが、我が子のためと意を決して足を向けます。
菩薩様に会いに行った鬼女が見たのは、そこに居なくなった我が子を抱いている菩薩様の姿。
泣いて我が子を返してほしいと懇願します。
そこで菩薩様が鬼女に言いました。
「そなたが100人からの子供のうち、一人いなくなっただけでこれだけ必死に探すのに、突然乳飲み子がいなくなった親はどんな思いだったのか。やっと授かった子もいただろう。子供をさらわれ悲しみに暮れる親が何人いただろう。
100人の子を育てるのにそなたは何人の子をさらってきたのか。
何人いようと子は子。
そなたが人間の子を子と見ず自分の身勝手でどうとして良いものか?
親としての思いは人間であろうと鬼であろうと同じこと。
心から悲しみ、我が身を引き裂かれる思いがわかったか?
人間の親とて同じこと。
その悲しみをどこにぶつけてよいものか分からず、途方に暮れる思いや悲しみを誰が背負うのか。これでよく分かったであろう。」
鬼女は答えます。
「良く良くわかりました。
私はとんでもないことをしていました。
この償いは今まで自分がやってきたことと引き換えに我が身を捧げて参ります。
なので、どうか私の子を返してください。」
菩薩様は言いました。
「では、良く聞くがよい。
これからは人間の子も我が子と同じように慈しみなさい。
この世に生まれることが困難な子もあろう。
災難で命を落とす子もいよう。
親の勝手で生まれてこれない子もいる。
これら全ての子を愛すと誓えるか?」
鬼女は答えます。
「是非そうします。
全ての子は我が子。
全ての子の命は我が子の命。
全ての子の魂は私が身を呈し、我が命に変えてもお守り致します。」
菩薩様は言います。
「そなたの言葉、心からの言葉として受け取った。ではそなたの子を変えそう。
途中で心変わりなぞしたら、そなたの子を全て我が隠し二度と会えない目に合うこと、しかと心に刻むがよい。」
鬼女は迷います。
その迷いを菩薩様が見逃すはずがありません。
そこで菩薩様は急に神々しい光を鬼女に浴びせました。
その瞬間に見た光景は、自分の子供が菩薩様の発した光により次々と消えていく様でした。
鬼女は慌てて自分の家に帰ると、そこにいた98人の子供がいなくなっていて、一人残っていた子供も我が手に抱いた瞬間に消えたのです。
鬼女は気も狂わんばかりに泣き叫び、菩薩様の元に走りました。
生きる気力も菩薩様を責める力も無く、ただ放心状態で菩薩様の前で泣き崩れます。
そして、菩薩様と目が合った瞬間に、最後の一人の子も菩薩様の腕の中から消えました。
鬼女はショックと共に目の前が真っ白になり立ち尽くします。
それを黙って見ていた菩薩様。
どれだけの長い時間が過ぎたでしょう。
鬼女が岩のように動かなくなり心まで凍りつきました。
すると、突然殻が割れたように今度は鬼女が光り輝き出します。
そして、鬼の形相だった顔は聖母のような微笑みに変わり、血に塗れた手は白い優しい手に変わり、鬼女の姿はそこにありません。
鬼女は言います。
「愛とは何か知りました。
慈しむとはどんなことかわかりました。
心を入れ替えるとはとても難しく、また命の尊さも知りました。
魂とはどんなに大切かわかりました。
命を粗末にしました。
そのための犠牲になった魂がどこに行くかも知りました。
私はなんてことをしていたのでしょう。
取り返しがつきません。
菩薩様。私はどうしたらよいですか?
どう償えばよいですか?
我が子の犠牲になった人間の子の魂を闇から救うことは出来ますか?
消えた我が子の命は今どこにありますか?
教えてください。
どうかお願いします。」
菩薩様は答えます。
「今のそなたの姿をしかと見るが良い。」
そこには一枚の鏡がありました。
その鏡に写っていたのは知らない存在です。
見ていると、とても清々しく気持ちが穏やかになります。
鬼女は言います。
「これは誰ですか?」
菩薩像は答えます。
「それが今のそなたの姿。何が見える?」
鬼女は答えます。
「これが私?違います。こんなに清々しい訳がありません。」
菩薩様は言います。
「信じられないならそれも良かろう。自らが犯した罪を償いたければ、そなたが見た闇の世界に行ってみるが良い。」
そう言って菩薩様はいなくなり、目の前が一瞬で闇になりました。
そこにある光景は、暗く重い光一筋も指すことのない闇の世界。
鬼女はだんだん悲しくなりました。
そして涙しました。
そしてひざまづいた時、手にした感触が心を揺さぶりました。
それは懐かしく尊い感じ。
まるで我が子を抱いたような安らぎでした。
シャボン玉のような触れるとすぐに壊れてしまう貴重なものを優しく慈しむように手にしました。
すると、その玉はゆっくりと、虹を含む輝きの中から人間の子供をへと変わったのです。
そして鬼女に笑顔を向けると白い帯になり天に昇っていきました。
鬼女は、またひとつまたひとつと虹色の玉を手に取り、その都度、温かい感触から子供へと変化し天に昇る様を見て、無心で玉を拾い始めました。
最後のひとつの玉の行く末を見届けた時、心の闇が無くなる感じがしました。
その時、胸に手を当てると、そこには目の前で消えた我が子を抱いていました。
その時に止めどなく涙が溢れ出てきました。
我が子に対しての愛と手元に戻ってきた喜びに感謝した涙でした。
すると、闇だった世界に光が差し込み、目の前には消えた我が子達がいました。
そこに菩薩様が現れ、こう言いました。
「そなたに言う。
これからは人間の子も我が子と同じように慈しめるか?この世に生まれることが困難な子もあろう。災難で命を落とす子もいよう。親の勝手で生まれてこれない子もいる。
これら全ての子を愛すと誓えるか?」
鬼女は言います。
「はい。慈しみ愛し感謝致します。
我が子の命の大切がわかりました。
全ての子の魂の尊さがわかりました。
自分の身勝手さを身に染みました。
子を失った親の悲しみと怒りがわかりました。
それらの思い、我が心で癒します。」
そう言い終えると、菩薩様は消え、そこには神として生まれ変わった『鬼子母神』がいました。
これが琴の知っている『鬼子母神』のお話✨
人の心はすぐには変えられない。
だけど、辛さ苦しさから学ぶものもあるということを鬼子母神から教えていただきました✨
このお話は、鬼子母神から教えてもらったお話です😊
鬼から神になったお話でした✨
前回は『雄龍』からのお話でした✨
https://k-aswell.com/contents_474.html
お寺の珍しいお話と不思議なお話はまだまだ続きます。
屋根の大改修の際、屋上の擬宝珠から一万巻の般若心経が発見されます。
この写経は、肉筆で一枚一枚ていねいに書かれたもので、500巻ずつ箱に収められ、虫除けに煙草の葉を入れ、油紙で包まれて奉納されていたということです。
そして、そのお堂の天井には一枚だけ板が外されています。
『龍神様の出入り口』ということですが、塞いでも必ずその板だけ外れているそうで、今では龍神様がいつでもお通り出来るよう、開けているそうです。
出入りしている龍神様かどうかは定かではありませんが、床を張り替えた時、床板にシミのような跡ができ、そこには龍の顔が突如現れ、今では『撫で龍』として参拝者がいつでも龍神様を触れるようにと身近な存在になっています。
なぜ床に龍?という質問にご住職曰く、
「上ばかりではなく足下を見なさいということでしょうか^_^」とのお答えだとか(^^)
そんな不思議なお話があるお寺の龍神様。
今回は、『雌龍』から琴が聞いたお話✨
ひとつが二つに分かれることで二つのことが同時に出来る様に、役割というものを皆与えられています。
男の子(おのこ)は男子(をとこ)となるために才(さい)を持ち、女の子(めのこ)は女子(をんな)となるために知(ち)を学びます。
知識あるもの国を統治し、知性あるものがそれを守る。
かの昔より良識として持つべき尊敬と感謝。
この両方があり『人』としての人格が形成されます。
頭が良いのは尊敬に値すること。
でもそれを悪しきものとして扱うのは人として無礼。
何事も隔てることなく感謝を持つのは素晴らしいこと。
でもそれを悪しき心で持つことは醜いこと。
役割とは「良」も「悪」もあり成り立つ。
全ての人が良いと思えることをやるのは不可能。
悪も同じこと。
それぞれが役割あってこそ意味を成す。
それは自らが決めることではなく、認められることで統一する。
己の役割を忘れることなく、才も知も程よく持つことで、良識を極める。
それは己を信じることに繋がります。
とのことです✨
難しい…😅
土地浄化に辺り、神に指示される場所に行き、祈願祈祷のお願いをします。
そのひとつに、いつも行くお寺があります。
そのお寺は、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない単位という特異な形態で存在している祈願寺で、御本尊が十一面観世音菩薩と脇仕の地蔵菩薩、毘沙門天が衆人の除災、結縁などにたいへんご利益があるとされ、参拝者が多く訪れます。
そこのお寺には不思議なお話があり、龍神様が二体。
雄龍と雌龍が火事から守ったというお話があります。
そこの龍神様『雄龍』から琴が聞いたお話✨
守るべきものがあるから守るということは、先人から日々恩恵を受け、感謝を貰い、全てを愛すからである。
何か特別なことをしているわけではない。
そこに守るべきものがあるというだけ。
「一心同体」「一心不乱」「一心発起」
これらの思い持つことで皆家族。
「一心同体」は、二人もしくは多くが心をひとつに一人のような固く結びつく。即ち、結縁。
「一心不乱」は、ひとつのことに集中し他に心奪われぬこと。即ち、愛。
「一心発起」は、あることを成し遂げようと思い立ち決意すること。即ち、守護。
何ら珍しいことではなかろう。
心ひとつにするもの・なれるもの、迷いなければ皆持ち合わす心。
相手を思い相手から思われる。
普通のこと。
天も地もなく心結ばれる思いこそ感謝。
困ること有れば助けるのも道理。
心ひとつになる思い有れば、その思いに応えるのも道理。
とのことです✨
さすが雄龍🐉
そして深い…
いつもありがとうございます。
次回は『雌龍』からのお話✨