4月
🌸2日(土)『み』イベント
旭川アルティモール東神楽店
11時から18時
サイキック・スピリチュアリスト琴
もみほぐし皇子
※いつも二日間の出店ですが、今回は『2日のみ』となります。
🌸3日(日)わんわんマーケット
バンカラ ゾーン-HS
13時から18時
サイキック・スピリチュアリスト琴
もみほぐし皇子
🌸8日(金)9日(土)10日(日)
ミネスピvol.8
札幌グランドホテル クリスタルホール
8日 11:00〜20:00
9日 11:00〜19:00
10日 11:00〜17:00
🌸14日(木)
白糠イベント
11時〜
琴:スピリチュアル鑑定
皇子:もみほぐし皇子
🌸15日(金)16日(土) 中標津セッション
シェアショップ and さん
15日:12時〜18時
16日:11時〜15時
琴:スピリチュアル鑑定
皇子:もみほぐし皇子
🌸17日 釧路わくわく市
釧路市生涯学習センターまなぼっと弊舞
2階 多目的ホール
10時〜17時
琴:スピリチュアル鑑定
皇子:もみほぐし皇子
🌸19日(火) かよカル
手稲キテネビル1階パン屋喫茶大和さん店舗内
11時〜17時(最終受付:16:30)
🌸22日(金)23日(土) 紋別わくわく市
紋別市民会館
22日:10時〜17時
23日:10時〜16時
🌸24日(日) 帯広
雑貨&ハンドメイドギャザリング
音更町アグリアリーナ
10時〜17時
琴:スピリチュアル鑑定
皇子:もみほぐし皇子
🌸25日(月) 札幌
1dayカフェ in 煌めきの箱庭
11時〜17時(カフェ終了:19時)
琴:スピリチュアル鑑定
皇子:もみほぐし皇子
『タケイワタツノミコト』は、阿蘇山を制する神様です。
火山を制して水をもたらし、田畑を開拓した神様。
出雲に大国主命がいるように、阿蘇にはタケイワタツが国作りを行い、多くの民に恵みを与えました。
ご利益は、開運・事業発展・商売繁盛・五穀豊穣・子授け
そんな『タケイワタツノミコト』から琴が聞いたお話✨
人が感謝するには、それなりに値のあるものが必要だ。
だが神は感謝されたくて存在する訳ではない。
しかし、人は「神」というだけで感謝する。
これは人にも言えること。
感謝されたくて親切にしたいる訳ではないのに、親切にすることで感謝される。
このような者は「神」と同じ値のある者となる。
神とは自らの心の内に自然と持つものであり、命ある皆が持っているもの。
そこに気づく者がどれだけいるのか。。。
少なくとも親切にされる者は、他の者にも親切に出来るということに間違いない。
ということです✨
『ニニギノミコト』は、アマテラスの孫にあたり、天界から地上に降りてきた神様。
アマテラスの孫達が地上に降臨し、このことを「天孫降臨」と言います。
そしてアマテラスは降臨するニニギに稲穂を渡し、「この稲を育てて地上を治めなさい。」と言います。
そこから稲を高く積む場所として『高千穂』と名付けられました。
宮崎県北端部にある、ここ高千穂町は『神話のふる里』と称される所以です。
さらにアマテラスは今の天皇の使命である「三大神勅」をニニギに託します。
一つ目に、この国の君主である自覚を持つ「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」
二つ目に、神としての生き方を示した「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」
三つ目は、この国を繁栄させるという「斎場稲穂(ゆにわいなほ)の神勅」
この三つの神勅を守ることが天皇の使命とされています。
ニニギにはこんなお話もあります。
降臨後、ニニギはオオヤマズノカミの娘コノハナサクヤヒメに一目惚れして妻にします。
父オオヤマズノカミは娘を嫁がせる際、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせましたが、イワナガヒメは美しくなかったため、ニニギは姉だけを親元に返しました。
これを父オオヤマズノカミはとても残念がりました。
二人を嫁がせたことには意味があり、コノハナサクヤヒメを傍におくと桜の花が咲き誇るように栄え、イワナガヒメを傍におくと、雪が降り風が吹こうと岩のように変わらない命を持つことが出来る。しかし、イワナガヒメを返したことで儚い命になる。ということでした。
こうして、ニニギの子孫である天皇は神の子であるにもかかわらず、その命は限りあるものになったそうです。
国歌君が代の「細石の巌となりて」とは、子々孫々岩のように永く続くという意味だそうです。
ニニギも父オオヤマズノカミの意図はわかっていたはずですが、永遠の命を続け愛が冷め止むくらいなら、限りある命の中で出来得る限りの愛を捧げたいとそう思ったであろうニニギは愛を貫きました。
そんな『ニニギノミコト』から琴が聞いたお話✨
気持ちというものを簡単に変えられる者ほど非情。
また簡単に変えられない者は依存や執着になる。
程よくが一番難しく、また心に決めることとは信念を貫くこととなる。
何を一番にしたいかは自分がよくわかっている。
そこに自信をつける『何か』を定めることが、なによりも難しい。
だが、心から思うことがあれば、その難しさはとても容易いものに変わる。
自らの気持ちを大切にしていただきたい。
とのことでした✨
『天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)』は、八百万の神の中でも一番の怪力の持ち主。
一番に有名なお話は、「天岩戸」
岩戸に引きこもった天照大神が外の様子が気になりもっと詳しく見たいという思いから顔を出した時、タヂカラオが天照大神を引っ張り出し、岩戸に縄をかけた。
という話。
また、タヂカラオは不動明王と同一化されたという話もあります。
そして、タヂカラオは伊勢神宮内宮に相殿神として祀られています。
そんな『アメノタヂカラオノミコト』から琴が聞いたお話✨
人が持つ三つの力を教えよう。
愛
感謝
思いやり
この三つは、人は必ず持っている。
この三つは、我の力を持ってしても崩すことのできぬ強固なもの。
人は信じることで思わぬ力を発揮する。
そのためにも日々の心の精進鍛錬を虐げられる。
人の上に立ちたければ、心に秘めた強い思いを貫くことを忘れず、自分の意思を貫く。
まずは忘れてはいけないことを心の中心に置くと良い。
とのことです✨
『スセリビメ』は「スセリヒメ」とも言い、大国主命の妻でもあります。
そして、スサノウノミコトが溺愛した娘。
スセリヒメの『スセ』とは進むという意味。
または『スサブ』という意味。
スサブとはスサノウのことで『荒ぶる』という意味です。
スサノウの愛を一心に受け、少々のわがままも許され、伸び伸びと育ったことでおてんば娘に成長したスセリヒメ。
そんな『スセリヒメ』から琴が聞いたお話✨
私の愛は一筋の光。
そこに迷いなく揺るぎない愛があります。
自己を貫く。
迷いのない思いで、何事にも後悔せず進む。
信念とはこのようなものです。
世間が気になり、周りの様子を伺い自分の思いを知られぬよう思い(心)を閉ざすのは、私の性分ではありません。
皆、私と同じようになることが出来たら心に負担を持つことなく楽に生きられるのに…と常々思います。
苦労は常々あるもの。
ですが、それをものともしない自己の強さは、誰しもあります。
私はそれを信じています。
とのことです✨
『八上姫(やがみひめ)』は、大国主命の最初の妻になった神様です。
ヤガミヒメには、ある物語があります。
ヤガミヒメが発した一言で、自らの人生を左右する出来事が起こる。
そのような内容が伺えます。
一度は大国主命と夫婦になりながら、一度も一緒に暮らすことなく、大国主命の子を産んだ『ヤガミヒメ』
そんな『ヤガミヒメ』から琴が聞いたお話✨
無理なお願いをされた時、人はどう断るか考えます。
すでに決まっている答えを素直に言えないから考えるのです。
素直に言えないということは、相手にとって気持ちが良くない言葉ということ。
ですがそれは、少しの気遣いで相手の気持ちを害する言葉から、思いやりあるものに変わります。
気遣いが出来る場面というのは、そうそう出会えるものではありません。
これもご縁。
このご縁を大切に長く続けるためには、いつでも気遣いと思いやりはとても大切です。
どんなに身近な存在でも、いつでも変わりなく、気遣いと思いやりで接することの出来る自分でいられますよう心から願います。
とのことです✨
『豊受大神(トヨウケノオオカミ)』は穀物の神様であり、伊勢神宮外宮に祀られています。
天照大神の御饌津神(みけつがみ)とされ、丹波国より遷宮させたとされます。
※御饌津神とは、食物を主宰する神
ある日、丹波国の泉に天女が舞い降り水遊びをしていた。
それを見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまう。
羽衣を隠された天女は天に帰れなくなり、老夫婦の養女となる。
この天女が『トヨウケ』です。
トヨウケは酒作りが上手く、その酒が高く売れて老夫婦は大金持ちになる。
当時の人にとって米と酒は一番大切な食べ物。
このことからトヨウケは穀物の神様とされたとしています。
そんな『豊受大神』から琴が聞いたお話✨
食べること。
それは『生きること』です。
どんな偉いものも貧しいものも食べなければ生きていけません。
生きていくために一番大切なものを欠かしてはなりません。
また、欲張り無駄にすることは天にも自分にも罪なこと。
人は必要なものを全て準備されています。
衣食住全てが生きるためには必要ですが、食べ物がなければ生きていけません。
また、食べることが出来なくなった時、人は死を迎えます。
与えられたものを与えられた分だけ食す。
与えられた運を与えられた分だけ全うする。
食も運も同じこと。
そこに憂いを持ち我欲を出すことでバランスは崩れ、真っ当な生き方が虐げられます。
そうならないよう自らを管理し、与えられたものに感謝すること。
自らを生かすことは、自らを管理することと同じ。
食は血を作り身体を動かす。
食は身体を作り思考を働かせる。
食は思考を働かせ自分を動かす。
そして交流はここから生まれ、縁は繋がる。
心に良い食で、人に優しく自分も穏やかに整えた時に出来た縁は信頼になります。
心が乱れているものは食も乱れ荒んだ縁しか手に入りません。
食は神聖なもの。
神聖な食は穢れを祓います。
正しい食で自らを生かす。
自分を大切にするということは欲のない生き方をすることです。
ということです✨
美味しいものが溢れている今の世の中。。。
自分にとって正しい食を見つけることが難しく思えます😅
『少彦名命(すくなびこなのみこと)』は、
大国主命(おおくにぬしのみこと)と兄弟となり共に国を作った神様です。
様々な薬や酒、温泉を作った神様でもあり、医療の神、酒造りの神、温泉の神とも呼ばれています。
容姿の小ささから一寸法師の原型となったとも言われています。
大国主命の右腕で、大国主命から大変信頼されていました。
ですが、国作りに様々な功績を残したスクナビコでしたが、突然大国主命の前から去ってしまいます。
スクナビコは高天原に帰る期限が迫っていたからです。
スクナビコが去ってから大国主命はたいへん苦しみ、どうして良いかわからなくなりましたが、最後まで諦めず国作りに取り組みました。
スクナビコが最後まで大国主命と国作りを共にしていたら、大国主命に自信は持てなかったかもしれませんが、スクナビコが国作りの日の目を見ないまま去ることで、互いの信頼と慈愛を信じることで最後の仕上げを大国主命が一人で仕上げ、確固たる自信を付けたと言われています。
スクナビコは国作りに貢献をしましたが、大国主命が国作りをしたと手柄をとらせる形にしたのです。
自らが始めたことでありながらも、相手の手柄にする。
実権を握ることに使命を持ちやすい昨今、No.2としての仕事を、真摯に全うする責任の持ち方というものの意味を教えてくれているようです。
そんな『少彦名命』から琴が聞いたお話✨
一人一人与えられた仕事には、一人一人に必要な行動と考え方が与えられている。
リーダーとして先頭に立つ者
サポートとして案を出す者
与えられたもの以外のことを無理してやるより、得意なものを持っているものがチームを組むことで計画は着々とこなすことが出来る。
そのためには相手を思う思いやりが大切であり、また自身の持つ『自信』と『意見』が大切になる。
互いにその時の考え方を受け入れた時、想像以上の結果を出せる。
理想ばかり追いかけ我を通し勝手な考え方と行動で場を乱していることに気づかないものは、仕事はもちろん人からの信用信頼も無くなる。
それぞれの思い、それぞれの考え方、それぞれの相手に対しての敬意をいつも持つ。
心構えとは、いつも相手がいてこそ役に立つ考え方を自らが備えておくもの。
自らが成長するためのヒントは、いつもそばにいるものが持っているということを忘れぬように、他者が身勝手でも自分に対しての確固たる自信を心構えとして持てる自分を目指すことが何より大切。
とのことです✨
『カムヤマトイワレヒコノミコト』後の『神武天皇(じんむてんのう)』です。
今回は『神武天皇』のお話✨
生まれながらにして明達で強い意志を持っていた『カムヤマトイワレヒコノミコト』は、十五歳で皇太子になり、四十五歳で兄達を連れ東征に向かいました。
その後、大和国を平定し紀元前660年、2月11日に即位、初代神武天皇となりました。
これが【建国記念日】の日になっています。
神武天皇の神武は、
『むやみやたらに人を殺すことが武ではない』という意味を持つ神武があります。
また、即位した際に述べた言葉に自我とは何か?を問うものがあります。
『自分が正しいと思うことを人に押し付けてはいないか?また、自分が正しいと思わないことを受け入れることが出来るだろうか?
この事を自我という。
そして、もし自我があったならば鏡にその姿を映し、我を取り除きなさい。
【かがみ】から【が】を取り除けば【かみ】となる。』
神武天皇から今の天皇まで、この掟が守られています。
悪いことを考えたりしているときは【鏡に映る自分を見なさい】と言われたり聞いたりしたことがあると思います。
鏡に向かうことは、時に反省したり正したりと、いつもとは違う変化を自ら気づくための行動でもあります。
また努力せずに我を通してる自分に気づくことでもあります。
そして、この時の気づきは自らが持つ「神なる自分」の気づきとなります。
『人を羨ましがらず褒め、感情で接することなく感謝する』
そんな気づきが自分の心の中にあります。
感情の波に飲まれそうになっていたり、心乱れる時は、自分の心に問いかけ気づくことに【鏡】を用いてみるのも良いですね😊
『アマノウズメノミコト』で有名なお話は、「天岩戸」のお話。
弟スサノウの傍若無人な行動にショックを受け、天岩戸に隠れた天照大神。
その天照大神を天岩戸から引き出すためにアマノウズメは体を張って踊り出し神々の笑いを誘い、天照大神を天岩戸から引き出すことに成功したという。
この時、天照を岩戸から引き出し縄を張ったのが『注連縄(しめなわ)』
天照が神々の笑いが気になり岩の隙間から外の様子を覗いた時に使った鏡が、3種の神器のひとつ『八咫の鏡』です。
そして、これら一連の出来事が『祭』の始まりと言われています。
祭とは、穢れを祓う神事です。
この穢れとは『怒・苦・悲・憂・恐』の感情で、この感情こそが問題を起こす根源であり、この感情を取り除くことこそが【祓いと禊】であると言われています。
祭りでは踊りと歌、そして笑顔がありますが、この状態を「清らかな状態」と言います。
【祓いと禊】で清らかな状態にすること。
これがお祭りが神社で行われる理由のひとつです。
ではここから、『アマノウズメノミコト』から琴が聞いたお話✨
人はいつでも顔明るく心豊かに、常に朗らかであるもの。
心の本気は、時には厳しく相手の心を揺さぶります。
ですが、本気が響いた時には必ず浄化が始まり、それが涙となり心の安らぎを得たとき、人は笑顔になります。
辛く苦しい時には、穢れが心を蝕み笑顔が消えます。
いつ何時でも心が豊かであることは、人も自分も救います。
笑顔でいること。
笑顔があること。
幸せとは心が持つ『本気』の思いから得るもの。
嘘偽りの無い穢れなき思いが自分も人も幸せにします。
いつ何時も笑顔でいることを大切になさい。
いつ何時も笑顔を見られることに感謝しなさい。
その時あなたは幸せに気づき、相手も幸せなのだと噛み締めることでしょう。
とのことです✨
『イザナキ』と『イザナミ』は、男女の性別を持った最初に夫婦になった神様。
『イザナ』は「誘う(いざなう)」の語源であり、誘い合う男と女を意味する言葉が生まれ、ここから『愛』が誕生しました。
それまでの神は永遠でしたが、この二人により『愛』が生まれ、その代償に『死』を受け入れました。
その後イザナミが火の神を生み黄泉の国に行った際、イザナキはイザナミを諦めきれず追いかけます。
そこで見た妻の酷い姿に耐えきれず、自ら縁を切ったのです。
この時のイザナキは、イザナミの気持ちを察する余裕など無く、自分を正当化することに精一杯でした。
そして二人の愛は崩れ、深く結ばれた愛こそ崩れたときには呆気なく終焉を迎えます。
愛が深ければ疑いも深くなり、つまらない問題を起こすものだというお話✨
そんな物語がある『イザナギノミコト』から琴が聞いたお話✨
愛と通じているとき、分かり合えているときは固く結ばれ安堵しかない。
しかし、強く結ばれていればいるほど信じられない光景を目の前にする事で、自分が信じていたもの全てが一瞬で消える。
心の弱さである。
相手に頼りきり全てはいつでも変わらず目の前にあるという過信。
愛を育むために死を受け入れた。
互いに同じ想いだったにも関わらず自らの想いを信じ貫けなかった。
これが『裏切り』である。
愛と死。
人が持つものであり、究極のもの。
また自分を信じるというひとつの糧である。
相手を信じるということは自分を信じていなければできない事。
信じたものを覆すことは、自らの弱さの露呈である。
神を信じるということも同じこと。
自らを信じ、神と約束するからこそ叶う願い。
まずは自分の心の在り方を定めよ。
自分を信じてくれている者たちを心から信じている自分を見つけよ。
これが信頼になる。
ということでした✨
信じるとは、思えばなかなか難しいことですね😅
『イザナミノミコト』は、命と引き換えに神を生んだ女神として有名です✨
イザナミは愛に生きた神と言われています。
初めての契りの際、自ら素直な思いを告白してしたことから産まれた子がヒルのような姿だったため海に流した。
これが流産を意味するのかもしれません。
その後イザナキからの告白で二人は深く愛し合い多くの子を産みました。
しかし、炎の子を産んだ傷が元でイザナミは黄泉の国へ逝ってしまいます。
黄泉の国で生の終わりを迎えようとしていた時、夫であるイザナキが迎えにきます。
黄泉の国のものを食べていたイザナミは、姿形が以前とはまるで違い、目を背けるほどのものになっていました。
その姿を見たイザナキは、イザナミに別れを言い渡します。
その時の互いの言い分から「生」と「死」が生まれました。
繋がりと愛が深ければ深いほど察してほしい思いから愛憎が生まれ、感情が大きくなり意見の食い違いが生まれる。
そんな物語がある『イザナミノミコト』から琴が聞いたお話✨
最初を決めるのは自分。
最初を決めてしまうのも自分。
信じていたものに裏切られる。
身を切る思いとは自ら死を迎えるよりも辛く苦しい。
愛の裏には憎しみ
思いやりの裏には悲しみ
信頼の裏には裏切り
無いと思うものが目の前に現れた時。
自分はどうしていいか分からず迷い戸惑う。
千の命を授かり世に下ろし
皆幸せであれと思っていた頃
私は幸せでした。
ひとつひとつの命を生み出し
世に光もたらし笑顔で満たされた時
私達も笑顔でした。
ですが、思いの丈が頂点を迎え
信じていたものが目の前から消えた時
全てを失いました。
思い通りにならない世の中を作り見据えるために神はいるのではありません。
自らの心の中に頑なに我を通す欲とエゴを手放すために、神は心に光を灯し、その光で心は温もりと穏やかさを知ります。
上手くいけばと思う願い
出来たら良い方向へと思う祈り
神仏問わず命あるものが皆持つもの。
幸いなことに私から生まれた子たちは皆、
愛あるものとしてそれぞれが大切なものを持ち
存在します。
それらは人としての思い、また神としての威光で
救いを求められる存在としています。
光あれば陰あり。
それも我が身がひとつの思いとして持っていたもの。
成功あれば失敗もある。
そこにどういう思いを心に備えるか。
命とはそのような存在。
命繋ぐもの、育むもの、希望持つもの
全てが様々な選択を持つ。
たくさんの理由をつけても心はひとつ。
自らを信じ、素直に心に響くことを抱き慈しむ
安らかで穏やかな思いで皆過ごせますように。
終わりとは儚い想いの果てから自ら決める事ではなく、心休まる無を迎えた時です。
とのことです✨
『イワナガヒメ』は、絶世の美女と言われるコノハナサクヤヒメの姉妹で、ニニギノミコトに一緒に嫁がせた女神です。
しかし、容姿が醜かったために父オオヤマヅミの元へ一人帰されます。
その事で私達の命は限りあるものになり、人類の寿命が出来たと言われています。
実はイワナガヒメは、「醜い神様」と言われていますが、本当は醜いのではなく『見えにくい神様』
イワナガヒメが持つ扇子は、自らを隠しているのです。
つまり、表面の美しさは目に見えますが、心の美しさはその美しさを持っているものにしか計り知れません。
見た目の美しさは歳を重ねるごとにいずれ劣化しますが、心の美しさは歳を重ねるごとに豊かになります。
つまり、その豊かさは岩のように死ぬまで衰えることが無く、その意思を子供達が見習い、岩に苔が生えるように永遠と栄える。
君が代にある「苔のますまで」とは、このようなことなのだそうです。
父の元へ帰されたイワナガヒメは、心乱すことがありませんでした。
人生を豊かにするのは内面の美しさであり、その美しさが社会を作り、平和な世の中を作ると自分を信じ、善に心を留めることの大切さを知っていたから。というお話があります。
そんな『イワナガヒメ』から琴が聞いたお話✨
美しさは人の心を豊かにします。
そして醜いものを引き立てます。
醜いものは美しいものを憎み羨ましがります。
そして、醜い自分を恨み全てを閉ざします。
しかし、本当の美しさを持つものは心も見た目も美しくなろうと努力します。
努力しないものこそ本来の醜い自分。
なので、心底自分を醜いと思うものは自らを隠します。
自分がこの世に存在しないかのように、ひっそりも身も心も隠すのです。
しかし、隠れている者を卑下する者こそ本当の心の醜い者。
認める者こそ、本来の心の美しさを持つ者。
ゆえに人は美しさを求めます。
人が美しさを求めて何がいけないのでしょう。
それは決して悪いことではありません。
私が醜いと言われ、それが「見えにくい」者としているように、内面は誰にも分からず見えないもの。
見えないわからないはとても神秘的で、興味そそられるものです。
美しさに正しい答えは無く、憧れもひとつの美しさゆえの考え方です。
このことから、美しさは人それぞれの考え方です。
人は本来とても美しい心の持ち主。
表面に捉われる者は、自らの心の美しさに気づかず、いずれその心の美しさに救われた時に改心します。
誰かがそれを待ち見届けなければいけません。
これが私の役割です。
何事に捉われることなく信じるということは、自分を信じるに値します。
信じることは美しさを全うする糧です。
おおらかに、そして穏やかに。
自らを信じるからこそ表現出来るのが言葉です。
心に響く言葉や立ち振る舞い、態度対応を持つ者との時間は自分を成長させてくれます。
人の言葉で自らの内面にある欲とエゴから、自分を知ることは恥ではありません。
少しだけ自分を知るために時間がかかるだけ。
そのままの自分でいるために、自分に恨み羨ましさが見えた時こそ、見えない内面の美しさが潜んでいます。
それが学びであり、内面の強さの源です。
揺るがない芯のある内面の持ち主の心には、見た目や表面的な美しさに心奪われる弱さは、内面の強さの証になります。
気づきとは、素直に自分を認めた時にやってくる閃き。
皆さんもお持ちのはずです。
ということです✨
心の美しさって難しいですね😅
『月夜見尊』(つくよみのみこと)は、
『闇に光を届け導く神』と呼ばれています。
ツクヨミは天照大神の弟であり、スサノウノミコトの兄。イザナキの右目から生まれたのが『月夜見尊』です。
イザナキが生んだ最も尊い神として、彼らを『三貴子』と呼びます。
ツクヨミは夜の神であり、月を読むという名前から暦とのゆかりも深く、神社で一日と十五日に参拝するのは、月の満ち欠けに関係があります。
天照大神が『陽』なら月夜見尊は『陰』
暗闇で足元を照らす役割や夜の海を月明かりで岸を照らし導く、そんな『月夜見尊』から琴が聞いたお話✨
『陰』とは、闇であり影。
そこに良きイメージは無い。
だが無くてはならぬもの。
『陽』とは、光であり恵み。
そこには明るいイメージが漂う。
これも無くてはならぬもの。
朝には太陽が大地を照らし、
夜には月が暗闇を照らす。
どちらも『心』を照らすものとして
人の心に光届け導く。
時には激しく強い光も必要だろう。
反面、優しく穏やかな光も必要だろう。
人の心に波があるように、海にも波がある。
時に激しく、時に穏やかに大気の流れを表現する。
自然の恵みを生かすのが『陽』なら
自然の動きを表現するのが『陰』
心の闇に届く光こそ、己を導き素直にさせる。
いつでも穏やかに
いつでも安らかに
月の光で己を照らし、心の波が立つこと無きよう自然体で生き自己を表現する。
そこには『静』が生まれる。
心が求める『静』は、月の光と共に自らが導き
穏やかに安らかに素直な自分を表現する。
生きとし生けるもの。
全てのものの願い思いがここにある。
とのことです✨
心のざわつきが無い、穏やかな日々が戻ってきますように✨
『タケミナカタノカミ』は、諏訪大社の祭神であり、大国主命の子です。
タケミナカタノカミの「ミナカタ」は『水潟』に通ずるとされ、水神である龍神や蛇神の姿で描かれています。
天照大神の命を受けたタケミカヅチが大国主命に国を譲るように迫ります。
大国主命には二人の子がおり、この話に抵抗したのがタケミナカタノカミ。
そのタケミナカタノカミとタケミカヅチが力くらべをしたのが「相撲」の始まりと言われています。
このことから、出雲大社の式年遷宮(しきねんせんぐう)では相撲が執り行われます。
そんな『タケミナカタノカミ』から琴が聞いたお話✨
いつ何時でもチャンスは巡る。
そのチャンスは『いつでも自分で選ぶことが出来る』
逃すも立ち向かうも自分次第。
何事にも挑戦する思い。
チャレンジはいつでも自分の欲を満たし、そして成長の証になる。
何事にチャレンジすることは己の真実を身をもって知ることになる。
良いことだけ求めるのも良し。
失敗したときに魂の成長となろう。
悪い結果になることを予感しながら挑戦するも良し。
成功した時には自らの実力の幅が広がり、自分を認めることになる。
どちらに転ぶことがないものに対して人は挑戦しようとは思わないもの。
これら人は意欲とする。
持つべき欲なら意欲を持つが良い。
意欲は己を成長させる。
ということです✨
なかなか意欲って持つ意識ないですね😅
意欲持って何事にも挑戦しようと思う😆
『ウカノミタマ』とは、『お稲荷さん』のことです。
お稲荷さんのお話は以前にも書きましたが、その時は「七尾の狐」と「九尾の狐」のお話でしたが、今回はお稲荷さんの『ウカノミタマノカミ』と呼ばれる神様のお話です。
○七尾の狐と九尾の狐のお話はこちらから↓↓↓
☆七尾の狐のお話🦊
https://k-aswell.com/contents_478.html
☆九尾の狐のお話🦊
https://k-aswell.com/contents_479.html
『ウカノミタマ』とは、全国の稲荷神社で祀られる神様。「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。
名前な「宇迦(うか)」は食(うけ)と同じ意味で食物の事をさし、八百万の神の中で最も有名な食物神です。
五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就の神として広く信仰されています。
古事記では、
父神にスサノウノミコト
母神にオオイチヒメノミコト
と言われています。
そんな『ウカノミタマノミコト』から琴が聞いたお話✨
食べ物の中で何が一番自分の体に合っているか知っていますか?
そして、何が一番好きですか?
「合っているか?」と問われると、皆答えられませんが、「好きか?」と問うと答えられます。
食とはそういうもので、好き嫌いがはっきり分かれるものです。
中には食べ物に興味がない人もいます。
こだわらない人もいます。
人にも好き嫌いがあり、興味やこだわりを持たない人もいますね?
そこにあるのはご縁で、そのご縁を自らの好みや思考で決めているのが人間です。
そして、食とは生きるための糧であり、とても大切なもの。
それを好き嫌いで判断し、こだわりで人を抑圧する人や、好き嫌いは別として、こだわりを持たず目の前にあるもので満たす人。
人とは様々な生き方をします。
どちらも「何か」の理由をつけていますが、食することに何ら変わりはありません。
これは、皆同じことをやっているだけのこと。
米は、美味しくなろうや大きくなろうとはしません。野菜も同じこと。
ですが、天候や世話の仕方で美味しくなったり大きくなったりします。
これは、携わるものに左右されます。
人も同じこと。
関わる人の影響を受け、嫌いな物を好きになり好きな物が嫌になったり、こだわりを持たない者が好きな物を見つけたり、嫌いな物に出会ったりします。
人は人の影響を受け、自然のものは自然のものの影響を受け、皆生きています。
生きることも人も自然も同じこと。
同じものを持っているのに、考え方が少しだけ違うというだけで「同じ」ではなくなります。
ですが、その違いがあるおかげで人は人らしい「個性」が見えてきます。
嗜好も同じこと。
食べ物も同じであっても、条件の違いで旨味甘味が変わり、嗜好に合う「人」に食されます。
これもまた自然の個性。
皆選ぶことをやり、そこに選ばれるのが自然です。
神も同じこと。
こうして皆何かを選んで生きています。
そこにあるのが、幸せであり、願いを叶えるために生きている証。
皆定められた運命の源で生きています。
その運命を全うすべきは「生きること」。
自分に合う『食』を探すことは生きる上で大切です。
目標を持つこと、希望を持つことも大切ですが、食は人の輪を広げ、また心を満たすもの。
その背景には自然があり、その自然には神が宿っています。
皆が生きるために、常に神々が生きるための手助けをしています。
皆、神の恩恵の源である自然に生かされているということ。
そして、その自然があるから神も存在するということ。
神含め皆、全てのものから守られ生き、存在しているということを思い出してください。
自分のことは自分で選ぶ。
皆、自ら選ぶ全てのことで幸せになりますよう。
ということです✨
食べ物大事〜😍
食べ物感謝🎵
生きてるうちにしか美味しいもの食べられないから〜❣️
自然大事🌿
神様ありがとう✨
『猿田彦命(さるたひこのみこと)』は、
『進出鬼没の天狗と言われた神』と言われています。
天照大神に遣わされたニニギが、高天原(天界)から葦原中国(地上)へ降り立つ時、いくつにも分かれている道を目の前に立ち往生していると、高天原から葦原中国までの道を照らす国津神(地上の神様)が現れた。
それが『猿田彦命』だそうです。
そんな『猿田彦命』から琴が聞いたお話✨
縁とは人からもらうものではなく、自らが導き自らが繋ぐもの。
そこにあるものには必ず天からの助言がある。
知らず知らずに繋がった縁も、元を正せば「誰かの言葉」「誰かの考え」または、様々な情報から皆得ている。
気になることは全て行動で示してみよ。
頭を使うこと
耳をすますこと
目で追うこと
手を使うこと
足を使うこと
体を使うこと
五感を使うこと
全て自らが持つ肉体を使うことで、縁は結ばれていく。
体の細部全てに五感は研ぎ澄まされ、直感となる。
頼り頼られの関係になった時、信頼が生まれる。
皆同じものを持つもの。
必然的に重なり合う縁もあれば、離れていく縁もある。
逆に、縁を選び縁を無視することで、縁は切れる。
縁とは不思議なもの。
「それで良し」とするものは本人の意思ひとつ。
繋がる縁と切れる縁。
どちらも「良しとする」と無駄な縁は無くなる。
体に無駄が無いよう、また縁にも無駄はない。
自らの思考に無駄が無いよう、また天の導きにも無駄がない。
目の前の縁はこれから広がる縁に繋がる源。
そこには新たな縁に結ばれる望みが目の前に広がっている。
とのことです✨
ご縁!大切にしよう🎵
3月
◎イベント
5日㈯・6日㈰
旭川
「み」イベント
旭川アルティモール
11:00~17:00
◎イベント
11日㈮
札幌
花きんナイト
手稲キテネビル1Fパン屋喫茶大和さん店内
18:00~21:00
〖完全予約制〗
◎イベント
15日㈫
札幌
かよカル
手稲キテネビル1Fパン屋喫茶大和さん店内
11:00~16:00(最終受付:15:30)
◎イベント
16日㈬・17日㈭
中標津 Share shop and
Share shop and in琴and皇子
サイキックリーディングandサイキックエネルギー整体施術
16日:17:00~19:00
17日:12:00~19:00
問い合わせ:090-6281-7531(要予約)
◎イベント
21日㈪~23日㈬
美唄
コア・ビバイミニわくわく市
10:00~17:00(最終日:16:00)
この他、個人セッション受付中❗❗❗
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今回は『森の神様』のお話🌿
いつも大きな施術や土地にまつわるお仕事の時、必ず行く場所があります。
そこには『森の神様』がいると言われる木があるところで、今までも神様の元で色々な経験をさせていただきました。
木から学ぶ修行🌿
「本当の暗闇と恐怖を知りなさい」と、夜中の2時に森に行き、電気も何も無い森の静寂と真っ暗体験の洗礼を受けたこともありました😅
その時の経験は、霊達がいる静寂と暗闇の世界の体験となっています。
木々のざわめきから感じることは全て「生」で出来ていること、施術に関わる精神面や人間の内面の流れや動きは自然の中に答えがあることなど、今のお仕事にとても大切で、また生きるために大切なことを教わっています。
そんな『森の神様』から琴が聞いたお話✨
一粒の種が何年も月日を重ね森は作られていく。
そこに集まる虫や動物は、森が生きている証。
森には「生」が集まる。
それは森が生きているから。
死の森にはただの無しかない。
そこに「生」は無く、生きるための命果てる時。
森は賑やかだ。
木々のざわめき、虫が動き、葉や幹を鳴らす。
鳥が飛び交い美しい音色を奏で、仲間を呼ぶ。
動物達が動き回り、それぞれの動きを警戒しながらも自分達が生きるための諸行を象る。
そこには善も悪もなく、ただ命を繋げるためのものしかない。
木々は、これらの命を繋ぎ止め、また終わりを迎えるものを見守る。
そこには大いなる大地があり、愛はそこから生まれる。
その愛を育み恩恵を運ぶために風が吹き、潤いを与える雨が降り、全てを温かく包み込む光がある。
そして、全ての機能を止め、英気を養う夜がある。
暗闇から学び生きることを好むものは、またこの時に生きる。
昼夜問わず森は賑やかだ。
耳をすませば聴こえてくる命の音がある。
ただ、今の人間にはわからぬだろう。
森の木々達が命を繋げるように、人間も命を繋げる場所がある。
そこに木々のざわめきや動物の声、虫達の足音は届かず、聞こうとする者もいないゆえ、わかるはずもない。
人間達の喧騒が森に届かぬのと同じこと。
しかし、生きる場が違うというだけで命が育つのは同じ。
愛を育み、全てを共存する。
違うのはそこに言葉があるかどうかの違い。
目の前のことだけに目を向けるな。
目の前にあるものがいつもあると思うな。
全ては自然の摂理からなるもの。
命とは自然にある全ての生きとし生けるものの宝。
命あればどんな苦悩困難は付きもの。
森を破壊し自然が無くなることもまた道理。
たが、命は尽きない。
形が無くなれば魂となる。
森の命は無下に破壊された時に無くなる。
だが、その命繋ぐために宿るものもある。
どちらも結局は命繋がれる。
そこにあるものをなんのためらいも憂いもなく、ただ受け止め流れに任せる。
これが自然であり森の姿。
木々は思う。
この無造作に生え生きるものこそ自分の姿。
さすれば人間も自然にありのままに生きること。
これこそが真の自分の姿ではないかと。
そのもの達の思いの象徴となるべく、我はここに神として崇められ命繋ぐものとして佇む。
そして逆らうことなく自然に生きる。
ということです✨
いつか無くなるかも知れない自然が、生きている限り目の前にありますように✨
『貧乏神』のイメージは、取り憑かれると貧乏になってしまうというなんとも迷惑な神様。
一度取り憑かれると追い出すのはとても大変で、人や家族に災いをもたらし、財産を食い潰し、金運を追い払ってしまうと伝えられています。
家族の中に金遣いの荒い人がいると、貧乏神が取り憑いている!と言ったり、それまで順調だった会社がたちまち潰れてしまうと、貧乏神に取り憑かれた!なんて言われます。
そんな『貧乏神』のことを琴が聞いたお話✨
貧乏神は元々貧乏だったわけではありません。
なぜ貧乏神と呼ばれるようになったかのお話です。
昔、ある豪商の家があった。
そこにはとても神様を大切にする主がいた。
その主はずっと一人で大きな家に住んでいた。
嫁をもらう話は数あれど、なかなか気にいる娘がいないまま、晩年を迎えようとしていた。
年の暮れ。
そろそろ正月の準備に取り掛かろうという時期。
一人女が訪ねてきた。
その女は、昔、主がまだ子供の頃今の家のお手伝いだったという。
その時、主の父親から「この先困ったことがあれば家を訪ねなさい」と言われていたという。
その当時は主は子供であり、そんな話など知りもしなければ聞いてもいない。
信用していいものか迷っていたが、もうすぐ正月。
年越しの準備の取り掛かるこの時期に来た女は、何か意味があるのかもしれない。
そして新年を迎える前に嫌な気分を持ち越すことも無かろうと、その女を家に招き入れた。
女は、昔お手伝いとしていたのがわかるほど、家の隅々まで知っていた。
主が知らなかったところまで知っている。
そして、手際良く掃除でもなんでも手伝ってくれた。
その女が来てからというもの、あまりに女が働きものなので、主は自分のやることまで女にやらせることにした。
毎日欠かさず手を合わせていた神棚や地蔵に参ることの果てまで。
すると、一年経ち二年経ちと、年数を重ねる間に段々主の家はお金が無くなって来た。
ある日、女は言った。
「そろそろお暇いただけますか?」
主は耳を疑った。
「いなくなるとはどういうことじゃ?」
「この家の財産はもうすでにありません。おまけにあなた様は自分の仕事まで私に押し付け何もしなくなり、しまいには大切にしていた神仏までも粗末にしました。
私はあなた様がいつも手を合わせ願っていた神棚の神です。
私が今までやって来たこと。
それはあなた様が全て自分でやっていたこと。
私はこれまであなた様のやっていたことをやってはいません。
一人が二人になった時、これまで以上に手足を動かしやり続けていたら福が舞い込んで来たでしょう。
ですが、人任せにした結果が今です。
私はあなた様が今まで通りなら福の神になったでしょう。
今、何もかも失ったあなた様には、私は貧乏神です。
これからどうするか。
心を入れ替えることでまた繁盛させるか、失念から貧乏を続けるかはあなた様次第です。」
そこで見せられたのは、何年も掃除も何もしていないただのボロ屋がそこにありました。
主は途方に暮れました。
そして思い出したのです。
昔、自分が小さかった時に母とは違う女の人が家にいたことを。
その時両親は必死に働き、寝る間を惜しんで仕事に明け暮れていた。
父や母にその女の存在を話しても信じてもらえず、うやむやなまま記憶が無くなり、その女がどうして出ていったかわからないけど、女が出て行ったのを見た記憶が甦ってきた。
女が出て行ってからは、みるみる家が繁盛したことを思い出しました。
そして、父が亡くなる時に言った言葉。
「家に見知らぬ女が来ても、自分のやるべきことは必ずやりなさい。これは代々家に言い伝えられていること。言い伝えを忘れるとたちまちに貧乏になる。神を拝むということは、自分の心を清くし、家が繁盛するということ。」との言葉を思い出したのです。
主は、自分のやってきたことを心から反省しました。
そして、貧乏神という女にも謝りました。
文句ひとつ言わず言いなりになり、時には話し相手になってくれた女。
女からは何一つ願いは無かったのに、あれもこれもとお願いし、また気に入らないことがあると当たり散らしていた自分を恥じました。
主は心を入れ替え言いました。
「もしお前が良ければ、貧乏神でも良い。このままこの家にいてはくれないか?そして私のことを神棚から見守っていてほしい。神にはいつでも色々話を聞いてもらった。
一人寂しい時、辛い時、楽しいこと嬉しいこと。
話し相手は神だった。
お前が目の前から消えたとしても、それは私の心の中に残っている。その姿があるだけでまた頑張れる。もし願いが叶うなら、このままこの家にいてほしい。」
女は答えます。
「あなた様が望むなら。」
そう言って女は、今は埃まみれのボロボロの神棚に消えていきました。
主は早速神棚の掃除をし、壊れた箇所を直し、家の掃除からここ数年何も手をつけていなかった畑や庭の手入れをしました。
ある程度片付いた時、いつも手を合わせていたお地蔵様の元は向かいました。
そして、お地蔵様に手を合わせ今までの出来事を話し心から反省しました。
すると、小さな物音が聞こえ顔を上げると、そこに立っていたのは神棚に消えた女でした。
女は言います。
「あなたの心からの声は、きっとあなた自身が家の繁栄につなげるでしょう」
そう言って女は消えました。
それからというもの、主は元の働き者になり、その家は前より繁盛したそうです。
というお話でした✨
貧乏神を作るのも自分。
福の神を呼ぶのも自分。
ですね✨
『天邪鬼』とは、ひねくれ者。
人の発言に対して自分もそう思っていても、逆の事を言って逆らうこと。
このような言動、行動をする人を『天邪鬼』と言います。
天邪鬼は悪鬼神や小鬼と呼ばれ、仁王様が踏みつけている鬼がいますが、それが天邪鬼です。
そんな『天邪鬼』について琴が聞いたお話✨
天邪鬼は、最初はいたずらで自分の心と反対のことを言っては、相手を困らせ怒らせていた。
ある日、ひとりの人間に会う。
その者は、天涯孤独で友達もいなかった。
天邪鬼はその者と話をした。
天邪鬼「なぜ一人でいる?」
人間「誰も自分に近寄ってこないからじゃ」
天邪鬼「では自ら近寄れば良い」
人間「人が怖いから近寄らん」
天邪鬼「人なんて怖くない」
人間「お前に何がわかる?」
天邪鬼「わしは鬼であろうと人間であろうと近寄れる。」
人間「いや。わしには無理じゃ。何を考えているかわからぬ者には近寄らん。」
天邪鬼「話をしたらわかるではないか」
人間「では、わしが何を考えいるかお前にはわかるか?」
天邪鬼は、人間の心を読んだ。
だが、わかるのは暗闇だけで人間の心が見えなかった。
天邪鬼「お前は何を考えておる?」
人間「それを読み取るのが得意ではなかったのか?」
天邪鬼「お前には闇しか見えぬ」
人間「では、お主も同じ闇を持っているということじゃな?」
天邪鬼「わしは闇などない」
人間「わしにはお主が闇だらけにしか見えぬ」
天邪鬼「わしに闇などない」
人間「話をしたらわかると言うたではないか?」
天邪鬼「お前はわしと話をしたくないのじゃ。だからそのようなことを言う。」
人間「最初に誰とも話したくないと言うたぞ。会いたくないとはそういうことじゃ」
天邪鬼「わしもお前とは話したくない」
人間「ならそれで良いではないか」
天邪鬼「何を考えているかわからないのはお前だ!」
人間「そうじゃ。わしが何を考えているかわからないから人が来ぬ。お主も同じじゃ」
天邪鬼「わしは一人ではない。お前とは違う」
人間「何が違う?同じじゃ。一人は寂しい。でも、どうしても考えがわからぬものと話すことはできぬ。話したところでどのような答えが返ってくるかわからぬことが怖い。だからわしは一人でいい。だがお主は違う。寂しいのが嫌だから話す。寂しいのが嫌なくせに反対のことを言うて、自分が正しいと譲らぬ。なぜ逆らうことを言う?なぜ心のままを素直に言わぬ?」
天邪鬼「お前は誰じゃ?わしはお前に聞いたのじゃ」
人間「わしはお主じゃ。お主の心の中が姿形となり現れたものじゃ。」
天邪鬼「何を言うておるかわからぬ」
人間「わかっておろう。いつも逆らい譲らず、認めず一人寂しい。これも全て自分がやっていることと知っておろう。だから何も考えていない者に対して恐怖を抱く。それが闇じゃ。闇を考えると寂しさと恐怖でいたたまれなくなろう。自らの心に闇を感じることに逆らっておる。怖いからじゃ。認めると一人でいることに耐えられなくなる。
だからいつもそんな自分から逃げるために、逆らい譲らず認めぬ。恐怖から逃げるということは一生逃げていなくてはいけない。そこから抜け出すのは認めることじゃ。自らの弱さを認め自分をさらけ出す素直さ。どうじゃ?わかっておることをやろうとするのは?出来ないのではなくやりたくないのじゃ。やってしまうと弱い自分を認めることになるからのぅ。どうせまたお主は逃げる。やりたくない認めたくないから逃げる。わしの思う通りじゃ。わしはお主だからな。お主の弱さ全て知っておる」
天邪鬼は人間の正体を知り、怖くなり逃げ出しました。
そして、自分と同じ考えの人間がいることを知り、それは自分そのものだと知った時、その人間のそばに居座り、寂しさを紛らわしています。
逆らい譲らず認めずをやっている人。
天邪鬼な性格の人はご注意を。
いつもそばに天邪鬼がいるやもしれません。
というお話でした✨
時に「あるある」😅
直そ…💦💦