今回は、『玄武』のお話。
玄武は、北方を守護する水神です。
「玄」は「黒」を意味し、黒は五行説では北方の色とされ水を表します。
脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多く、玄天上帝としては黒服の男性に描かれます。
古代中国において、亀は「長寿と不死」蛇は「生殖と繁殖」を象徴し、玄武の亀と蛇の合わさった姿は『陰陽』が合わさる様子に例えています。
そんな玄武から琴が聞いたお話✨
四方八方の守護があってこそのこの世の中。
中間を取り都合の良い考えで向かうその先には、そこでの四方八方が存在する。
即ち、どこでどのような守護を求めても、そこには完全なる護りがあるということ。
案ずることなく生きる道がそこに存在する。
天が決めたことで生きているのではなく、自らが決めたことで動いているのと同じで、東西南北を決めているのも自分であり天。
どちらが本当かは自分で決めれば良い。
向かった先には必ず「自らが望む答えがある」
北へ向かえばそれが南であっても、本人が「北」と思えばそこは北。
気づけば南に向かっていたとしても、そこに気づきがあれば、それはそこで正解になる。
逆に悪いことがあれば失敗に気づくだけ。
気づきとはどちらが正解ではなく、自らがどう思うかによるもの。
難しく考えることはない。
自らの迷いは戸惑いとなり、自らに考える機会を課しているのみ。
気の向くまま思うまま進めば良いではないか。
こだわりとはそういうもの。
しかし、迷いを正す存在もまた必要。
ひとつの指針として我ら存在するように
自らの指針は自分で決めれば良いこと。
迷わねば解決できない事もある。
迷うから解決する事もある。
迷わず解決する事も迷う事なく答えが見つかる事もある。
誰しも魂の赴くまま、我が道を辿る。
これぞ人生。
先に進むことこそ自らの答えはそこにあり、
過不足なく与えられるもの。
西方に来た者現れし時は、そこでしか解決出来ぬことを求めてきた者。
それら分け隔てなく価値あるものとしてみなすこと、それはどこから来たとは関係なしに歓迎する。
それが我の使命であるから果たすのみ。
皆使命果たすため生きている証。
それら神も人も皆同じこと。
そこにある存在、皆同じもの持つ者。
分け隔てなく過不足なく
天も我も人も同じもの持つ者。
これら平等。
ということです✨
神も仏も無い!自分を信じるのみ!
とは言いますが、
「信じるものは救われる」的考え方が
あるから存在するのもまた神✨
これこそ自分を信じているに値するものと
琴は考えます✨