「仏様」とはよく聞く言葉だと思いますが、この仏様には順位があります。
最も位が高い『如来様』
その下に『菩薩様』
またその下に『明王様』
そして最後に『天』
「天」は、大黒天や毘沙門天がこのグループ。
「明王」は、不動明王や愛染明王。
「菩薩」は、弥勒菩薩や観世音菩薩(観音様)
地蔵菩薩(お地蔵様)
「如来」は、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来と分けられます。
今回は、菩薩様である『地蔵菩薩様』お地蔵様のお話です。
お地蔵様は、昔話にも良く出てくる庶民の人気者。
誰の目にも止まり、また誰からも愛される身近な存在です。
昔は、その村を守る氏神様の代わりに人々の身近な存在として民の生活を見守り子ども達の健康を守ってくださる神様として崇められていました。
地蔵菩薩とは、釈迦が亡くなってから弥勒菩薩が現れるまで無仏になる間、全ての生き物を救うと言われている菩薩で、道端などに良く見られるお地蔵様のことです。
大地のように広大な慈悲で救済するということから、この名前がつきました。
僧侶の形をして、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っている愛らしい姿で広く知られています。
地蔵は、地獄の責め苦の救済を求める対象なり、親より先に死んだ子供達を守るのが地蔵菩薩であるとされています。
六道輪廻の思想から、あの世への旅立つの場として。
また、六地蔵像があるところでは、死ぬと六種の世界は生まれ変わることから、その都度六つの地蔵に救ってもらうため。
そして、町外れや辻という町の結界には、地蔵尊が守護神として祀られているのをよく見かけます。
そんな、町の守り神『お地蔵様』から琴が聞いたお話✨
最近の子供達は外で遊ばぬな?
我ら地蔵のことを知らぬ者も多いだろう。
ただの石の塊だと思うておるのもいる。
それでも人は災いや病気になると神だ仏だと神社や寺に行き、ご利益ばかり求める。
わしらのご利益は、皆を守り、その守りに感謝する者の健康と厄を災いから守ること。
こんなに身近で神に触れることは無いというに、非常にもったいない。
皆、地蔵のもとに川を渡りあの世に行くというに、知らぬが仏とはこのことじゃな。
それでも尚、手を合わせ1日の健康と安全を守るために寄るものもいる。
ありがたいことじゃ。
いいか?
ここからの話を良く聞け。
地蔵は手を合わせてほしいからいるのではない。
この世を旅立つ命がある限り、必ず地蔵の元に寄りあの世に旅立つ。
その時、生きて命を繋ぐ者に対して魂となった者はいつもこう言う。
『どんなに辛くても魂になれば、そこからまた新しい修行に入る。生きて辛く苦しいことも、死んだらそれは感謝に変わる。生きていれば手を合わせ感謝する場もある。生きていれば言葉を交わし心安らぐ相手もいる。言葉発すれば皆の耳に届き自らの思いを言葉に出すことも怖かろう。だが、魂になれば自らの言葉は神仏にしか聞いてもらえず、またその願いは聞いてはくれぬ。生きている時にしか出来ぬこととは、しっかり自らの思い考え方を伝えることじゃ。
これができぬ故、後悔未練としてこの世に魂を残すことになる。
これが成仏出来ぬということ。
まずは地蔵に心の中で悩み苦しみを打ち明けよ。
死人に口無しとはよう言うたもの。
この世では地蔵にも口無し、他言無用じゃ!
神仏も同じこと。
願いを叶えるのは自分。
じゃが、願いを打ち明け自らの約束にすること、聞き届けた神仏は必ず応援する。
なぜならば、神仏に打ち明ける願いは、自分の内の神なる存在「魂」との約束となる。
魂が偉いのではない。
その魂を宿して苦難を乗り越える己こそ、神なる存在。
自分を卑下することなく、応援してくれる者たちがいることに感謝せよ。
それが仲間というもの。
毎日地蔵に手を合わせていれば、同じ地蔵に手を合わせにくるものと話すこともあろう。
これが仲間というもの。
やり続けることの大切さは、自らの意志で作り動いていること。
途中で投げ出しても良い。
経験は積まれ、それが身になるまで続けることが困難だっただけのこと。
自分に正直にとはこのこと。
やれば達成感。最後までやらねばそこまでの経験。どちらも自分が分かるというもの。
生きているということは全てが恵み。
成し遂げたければ行動のみ。
我はいつも皆をみておるぞ。
とのことでした✨
ブログ頑張りまーす❣️