『イワナガヒメ』は、絶世の美女と言われるコノハナサクヤヒメの姉妹で、ニニギノミコトに一緒に嫁がせた女神です。
しかし、容姿が醜かったために父オオヤマヅミの元へ一人帰されます。
その事で私達の命は限りあるものになり、人類の寿命が出来たと言われています。
実はイワナガヒメは、「醜い神様」と言われていますが、本当は醜いのではなく『見えにくい神様』
イワナガヒメが持つ扇子は、自らを隠しているのです。
つまり、表面の美しさは目に見えますが、心の美しさはその美しさを持っているものにしか計り知れません。
見た目の美しさは歳を重ねるごとにいずれ劣化しますが、心の美しさは歳を重ねるごとに豊かになります。
つまり、その豊かさは岩のように死ぬまで衰えることが無く、その意思を子供達が見習い、岩に苔が生えるように永遠と栄える。
君が代にある「苔のますまで」とは、このようなことなのだそうです。
父の元へ帰されたイワナガヒメは、心乱すことがありませんでした。
人生を豊かにするのは内面の美しさであり、その美しさが社会を作り、平和な世の中を作ると自分を信じ、善に心を留めることの大切さを知っていたから。というお話があります。
そんな『イワナガヒメ』から琴が聞いたお話✨
美しさは人の心を豊かにします。
そして醜いものを引き立てます。
醜いものは美しいものを憎み羨ましがります。
そして、醜い自分を恨み全てを閉ざします。
しかし、本当の美しさを持つものは心も見た目も美しくなろうと努力します。
努力しないものこそ本来の醜い自分。
なので、心底自分を醜いと思うものは自らを隠します。
自分がこの世に存在しないかのように、ひっそりも身も心も隠すのです。
しかし、隠れている者を卑下する者こそ本当の心の醜い者。
認める者こそ、本来の心の美しさを持つ者。
ゆえに人は美しさを求めます。
人が美しさを求めて何がいけないのでしょう。
それは決して悪いことではありません。
私が醜いと言われ、それが「見えにくい」者としているように、内面は誰にも分からず見えないもの。
見えないわからないはとても神秘的で、興味そそられるものです。
美しさに正しい答えは無く、憧れもひとつの美しさゆえの考え方です。
このことから、美しさは人それぞれの考え方です。
人は本来とても美しい心の持ち主。
表面に捉われる者は、自らの心の美しさに気づかず、いずれその心の美しさに救われた時に改心します。
誰かがそれを待ち見届けなければいけません。
これが私の役割です。
何事に捉われることなく信じるということは、自分を信じるに値します。
信じることは美しさを全うする糧です。
おおらかに、そして穏やかに。
自らを信じるからこそ表現出来るのが言葉です。
心に響く言葉や立ち振る舞い、態度対応を持つ者との時間は自分を成長させてくれます。
人の言葉で自らの内面にある欲とエゴから、自分を知ることは恥ではありません。
少しだけ自分を知るために時間がかかるだけ。
そのままの自分でいるために、自分に恨み羨ましさが見えた時こそ、見えない内面の美しさが潜んでいます。
それが学びであり、内面の強さの源です。
揺るがない芯のある内面の持ち主の心には、見た目や表面的な美しさに心奪われる弱さは、内面の強さの証になります。
気づきとは、素直に自分を認めた時にやってくる閃き。
皆さんもお持ちのはずです。
ということです✨
心の美しさって難しいですね😅